野田宇太郎『新東京文学散歩 上野から麻布まで』を読む

 野田宇太郎『新東京文学散歩 上野から麻布まで』(講談社文芸文庫)を読む。戦後すぐの昭和25〜26年に作家たちの住んだ家を訪ねて歩いた記録。といっても戦災=空襲のためにすでにほとんどの風景は変わっている。それを根気よく探して訪ね、代替わりしている場合は新しい住人に話を聞いている。私も本書を持って作家たちの住んだ跡を訪ね歩いてみたいと思った。
 なかに個人的に気になった俳句があった。

 37歳、紅葉は有為の前途を残しながら、明治36年10月30日に早逝した。病気は胃癌であった。その死の年の2月には胃癌を宣告され、療養につとめたが、病重しとの報は全国の読者の心をくらくした。いよいよあと二三ヶ月の生命だと知った紅葉は、突然、或日丸善に現れ、そこに勤めている知友の内田魯庵と会い、センチュリー大辞典を購求して、死出の勉学をしたと云う魯庵の思い出話は有名である。


  死なば秋露のひぬ間ぞ面白き


 これがあくまでも肚の据った紅葉の辞世の句であった。

 ここで思い出すのは飯田市俳人久保田創二の句だ。


  死なば十代帰燕せつなき高さ飛ぶ


 すると、創二の句の本歌は紅葉だったのか。
 その「帰燕せつなき高さ飛ぶ」をもらって、我が師山本弘の思い出のタイトルとしたのだった。


帰燕せつなき高さ飛ぶ(2006年6月29日)


 さて、あとがきを坂崎重森が書いている。文中、つぎのような一節があった。

 ぼくがこのタイトルの本を手にしたのは、家(墨田区吾嬬町、現・立花)から自転車で十分ほど、中居堀にあった古本屋(いや、吾妻橋の浅草と反対側の橋のたもとにあった店だったのかもしれない)で入手した昭和26年6月、日本読書新聞刊の1巻であった。

 え、墨田区立花? 坂崎? それで調べてみたら、坂崎重森はアルフィー坂崎幸之助の叔父だった。では重森の生家は坂崎酒店なのだ。立花図書館や立花中学のすぐ近くにあり、私も缶ビールを買って坂崎幸之助のお兄さんと話したことがある。