山口果林『安部公房とわたし』を読む、なぜ女たちは告白するのか

 山口果林安部公房とわたし』(講談社)を読む。女優山口果林安部公房との関係を赤裸々に語ったものだ。山口はデビュー早々にNHK朝の連続テレビドラマ『繭子ひとり』の主役に抜擢され、スターに躍り出る。しかし、その時すでに安部公房の子供を身ごもっていて中絶したという。山口は桐朋学園大学短期大学演劇科へ入学して安部と出会っている。のちに安部公房ゼミナールに参加し、やがて深い関係になる。だが、安部には妻安部真知がいるし、山口は人気女優であり、スキャンダルを恐れて二人の関係は完全に隠される。安部の晩年になってようやくマスコミで囁かれることになるが、ノーベル賞候補の声が高く、新潮社からは安部の離婚・山口との再婚を反対される。受賞に影響があるというのだ。安部は真知とは別居するものの、山口との同居を公にすることなく亡くなってしまう。安部が亡くなって20年経ってようやく山口が安部との関係を赤裸々に語ったのが本書なのだ。
 ほとんど20年に及ぶ安部との交際をひたすら隠し通した。そのことの苦痛、ストレス、困難がじっくりと語られる。読みながら山口に同情している自分がいる。しかし、どうして今ここで公表するのだろうか? これまでしてきたように、なぜ隠し通すことをしないのか?
 有名人と秘密に交際して、彼が亡くなった後それを公表した女性は何人かいる。森有正と交際していたと告白したブック・デザイナーの栃折久美子吉行淳之介の愛人だったと暴露した大塚英子、中原佑介と交際していた版画家の山本容子など。告白はしなかったが、澁澤龍彦と結婚していた矢川澄子は離婚後自殺している。この自殺について、Wipipediaに「2002年5月29日、黒姫の自宅で自殺。同年刊行の『文藝別冊 澁澤龍彦』の澁澤年譜に、矢川のことが一切抹消されているのを知ったのがきっかけではないかという推測もある」と書かれている。
 栃折久美子が『森有正先生のこと』(筑摩書房)を発表したのは彼女が74歳のときだった。山本容子は『マイ・ストーリー』(新潮文庫)に中原佑介とのことを書いているが、山本容子が中原を振ったので、少しケースが異なっている。下品な大塚英子は『「暗室」のなかで−−吉行淳之介と私が隠れた深い穴』(河出文庫)を書いて、自分が吉行の著書『暗室』の主人公のモデルであり、吉行の愛人だったと自慢している。さらに大塚英子は安部公房が銀座の有名クラブ、ゴードンのママと大塚との3人プレイを強く望んでいたとまで書く。そのゴードンのママの話として、

「アベコウボウはね、あれ気が小さいんだよ。わたしが(自宅に)電話するとね、いつも声を押し殺してさ、なんかものすごくビクビクした感じで返事するの。書斎に女房が張りついているとは思えないんだけどさ、あれ、なんなんだろう。外ではあんなに威張っているのに」

などとも言い放っている。
 これらのことから見えてくるのは、有名人と内々に付き合ってきた女性たちが、彼らが亡くなったあと、自分の痕跡が消えてしまったように感じることであり、その時自分の存在の証を明らかにしたいという欲求なのではないか。山口果林安部公房の死後、自分が存在していなかったように感じていた。本書から、

長い間、安部公房の体調に気を遣い、母親の最後を託され、自分のことはあと回しにしながら生きてきた。両方を一遍に奪われたあと、自分のために生きる習性を身につけていなかったことに思い至る。安部公房と私との生活は全く無視され、私は世間から透明人間にされてしまった。

 安部公房が亡くなって以来、遺族から一切、連絡は入らなかった。蚊帳の外に置かれ、まるで私が存在していなかったかのような世間の空気だった。この間、安部公房の人生から消された「山口果林」は、ひとり生き続けた。

 彼女らが考える偉人と、彼女がカップルになっていたというのは、偉人である彼が彼女をかけがえのない人と評価したからだ。しかし内密の関係なので、そのことは二人だけしか知らない。彼が亡くなったとき、彼女の重要性を担保するものが消えてしまった。だから山口果林は本書を公刊し、栃折久美子も告白し、矢川澄子は絶望して死を選びさえしたのだろう。
 話は変わるが、本書で安部公房が評価している作家が語られる。

 いつのことだったか、「次の世紀に生き残る作家は誰だと思う? 3人挙げてみて」と聞いたことがある。安部公房は少し考えて「宮沢賢治太宰治……うーん」3人目の名前はなかった。自分だという思いがあったのだと思う。

 私だったら、谷崎潤一郎大岡昇平三島由紀夫の3人を選ぶ。安部公房の選んだ3人を選ぶことはない。いや、誰にも聞かれてないが。
 山口果林の文章は、細部に対するこだわりがきわめて強い。だから大局的な記載にはなっていない。時間系列を乱しているのは意図的なのだろうが、それが効果的にはなっていない。とても名文とは言いがたいが、安部公房の娘の安部ねりの悪文に比べれば悪くはない。口絵に安部公房が撮ったらしい山口のヌード写真が掲載されているが(それはきれいな裸身だ)、ここまで読者サービスする必要はないのではないか。(もっとも、山口が魅力的な裸身を誇っているのかもしれない。大塚英子が吉行にほめられたというおのが尻の写真を本の表紙に使ったように)。
 それにしても、あのブサメンの安部公房山口果林という美人女優となぜカップルになることができたのだろう。いつもブサメンと娘に言われている私だが、安部公房に比べれば多少はマシなのではないだろうか。それにしては山口果林の1/10くらいの女性にも縁がないのが現実なのだった。娘が言う、父さんだってNHK廣瀬智美アナウンサーって「脳内嫁」がいるじゃん。いや、脳内嫁って単なるファンにしか過ぎないから。
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安部公房とわたし

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マイ・ストーリー

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失われた庭

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