大和田俊之「アメリカ音楽史」がおもしろい

 大和田俊之「アメリ音楽史」がとてもおもしろかった。具体的にはポピュラー音楽史。取り上げられているのは、ミンストレル・ショウ、ブルース、カントリー、スウィング・ジャズ、モダン・ジャズ、リズム&ブルースとロックンロール、ロック/ポップス、ソウル/ファンク、ディスコ/パンク/ヒップホップ、ヒスパニック等々。
 大和田はアメリカ音楽を「偽装」だと捉える。読売新聞5月8日に掲載された都甲幸治の書評より、

 キーワードは偽装である。アメリカにおいて音楽は決して自己表現のためにだけ生み出されたのではなかった。むしろ「自分を偽り、相手に成り代わり、別人としてふるまい、仮面をかぶる」欲望にこそ駆使されてきたのだ。だからこそ19世紀の労働者階級に愛された『ミンストレル・ショウ』では、白人のなかでも差別されていたアイルランド人やユダヤ人が顔を黒く塗り、アイルランド民謡を黒人訛りの歌詞で歌いながら、実は自分はまっとうな白人なんだよ、と主張する。しかもその舞台を今度は当の黒人達が真似し始めるのだ。

 本書から、

(ジャズの)ビバップはその大衆性によって支持されたものではない。むしろ、大衆が容易にアクセスできないハイ・アートとしての自律性を獲得したことが評価されたのだ。(中略)
 そして、ジャズの〈歴史〉はこの到達点からさかのぼるかたちで構成される。それはニューオーリンズ・ジャズの民俗性(folk culture)からスウィングの大衆性(mass culture)を経て、ビバップにおいて芸術性(high culture)を獲得するという進化論的で目的論的な図式に収められる。

 そして、マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』を論じて、

 通常のジャズ史において1940年代のビバップ革命を唯一の切断点としてみることについては本章の冒頭で述べた。しかし、ジャズを〈黒人音楽〉として位置づけるのであれば、ビバップの成立よりも59年のモード・ジャズの完成の方がはるかに重要であるという解釈は十分に説得力をもつ。たしかにビバップの誕生は、ダンス・ミュージックから即興演奏を中心にした鑑賞音楽への変化をもたらした。だが、楽譜と即興という違いはあれ、どちらも機能和声の理論にもとづいて演奏されることに変わりはない。それよりも西洋クラシック音楽の呪縛から逃れ、コードの重力から解放された「モード奏法」こそが〈黒人音楽〉としてのジャズを決定づけるもっとも重要な断絶だとはいえないだろうか。

 またプレスリーを論じて、

 エルヴィス・プレスリーは現在もっとも過小評価されている音楽家のひとりである。(中略)ビルボード誌がほぼ現在のかたちに整備された1955年以降、エルヴィスは114曲をポップス・チャートのトップ40に送り込んでいるが、これは2位のエルトン・ジョンの59曲を大きく引き離しての1位である(3位はビートルズで52曲、4位はマドンナで49曲)。トップ10に入った曲数もエルヴィスがもっとも多く、連続1位獲得数や1位獲得週数の記録もエルヴィスが保持している。(中略)
 また、エルヴィスの重要性は決して数字だけで測りきれるものではない。アメリ音楽史のみならず、世界のポピュラー音楽の歴史を白人文化と黒人文化の混淆という図式でとらえるならば、その結節点のひとつは間違いなくエルヴィス・プレスリーのパフォーマンスにある。中世ヨーロッパにまでさかのぼるバラッドの伝統と、アフリカや南米大陸経由でもたらされた黒人文化の系譜。この二つの文化の融合を象徴するのがエルヴィスであり、彼が背負うことになった音楽史/文化史の重みに比べれば、ビートルズローリング・ストーンズのメンバーは少しばかり音楽的センスに恵まれた青年たちにすぎないのだ。

 全編こんな調子で語られる。何という記述であるか。興奮して読んだことだった。


アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)