野見山暁治「いつも今日ー私の履歴書」(日本経済新聞社)の「母の終焉」は言葉を失う。
ちょっと福岡に戻ってきてほしいと母から電話があった。(中略)福岡は霙(みぞれ)まじりの雪がちらついていた。二月のことだ。母はぼくを見るなりタクシーを拾って、そう遠くもない銀行に連れてゆき、貸金庫にある現金と、通帳の全額をおろし、それから郵便局に立ち寄って、又しても通帳に打ってある全額をおろして、ぼくに渡した。今日のことは誰にも言わないように。
……わたしはね、死ぬことにした、そのときこの金を用立てるようにね……母はごくふつうのことのように言った。
(中略)
半年前ほどのことらしい。廊下に何やらころりと転がっているのを母は見つけた。なんとそれが自分の粗相だと知ったとき、漠然と今日の日を予想したのではなかろうか、と妹たちは言う。たぶん母の美意識が許さなかったはずだ。
(中略)
春になった。いったんは体調をこわして母は入院していたが、そこでの治療、食事の一切を拒み、家に戻ってベッドに臥せたきり動こうとしなかった。心を開こうともしなかった。ひたすら死に近づいてゆくだけの日々だ。
母の口述による僕の記録。
仏壇は一切不要、経机一つ、その上に花一輪、香合、なお死に顔は誰にも見せない事。
食を断ってからほぼ二週間、医者からは再三入院を促され、相応の処置も強要されたが、ぼくは母の言うとおりに拒みつづけた。八十八歳、母はついに老人になることはなかった。
昨年夏、お盆の直前に私の父が胃癌で死んだ。満八十八歳だった。すぐ盆でお寺は多忙で葬式があげられないと言う。葬儀社からはこの暑さで遺体が崩れますと言われる。寺に無理を言って盆の初日の夜、通夜だけを済ませてもらい、翌日荼毘に付した。葬儀はさらに二日後だった。葬儀の前日偶然、鉄斎が亡くなる前年に書いた書を見た。鉄斎も父と同じ満八十八歳で亡くなっていた。その書。
「長生何必羨神仙」
長生何ぞ必ずしも神仙を羨やまん
長生きしたのだから別に不老不死の仙人などうらやましくもない
これは父からのメッセージではないかと思った。オヤジ、安らかに眠れ。もう十分生きたね。