浅野貞夫がなぜ「植物生態図鑑」の刊行を中断したか?

 昭和44年に築地書館から「日本植物生態図鑑1ー合弁花類1」という本が、翌昭和45年に「日本植物生態図鑑2ー合弁花類2」が発行されたが、全5巻という予告がなぜか2巻だけで中断された。著者は沼田真と浅野貞夫。沼田は植物生態学の権威、後に日本植物生態学会長を勤め、千葉大学学長にもなった。浅野は当時千葉県立高校の生物の教師だった。図鑑の評判はすこぶる高く、丸善を通じて海外にも販売し、ドイツでも評価が高かったという。それが2巻発行されたところで中断し、浅野は築地書館に対して本図鑑の今後一切の増刷を禁じた。それは37年たった今でも守られている。
 浅野は何が不満だったのか。なぜ中断したのか。このことについて浅野は家族を始め知人にもほとんど話さないまま亡くなったので本当のところは分からないままだ。これはだから私のささやかな推理だ。
 浅野貞夫は明治39年山形県生まれ、山形県師範学校を卒業後山形県の小学校に勤め、昭和6年千葉県立長狭中学校の教員になり、戦後は千葉県立長狭高等学校と名を改めた同校に定年の昭和40年まで勤めている。昭和28年内地留学の制度を利用して千葉大学に入学し、沼田真のもとで植物生態学を学んだ。沼田は大正6年生まれ、浅野より11歳若い。浅野は自分より若い沼田を師とした。沼田はドイツのラウンケアの植物の生態型を独自に発展させていた。浅野はその方法に沿って精密な植物生態図を描いていった。築地書館から発行された「日本植物生態図鑑」はその成果となるはずのものだった。なぜそれを中断したのか?
 浅野の声がいくつか漏れ伝わってきた。浅野の弟子は「出版社からイラストレーターとして扱われた」と聞いたという。浅野の葬儀の折私が遺族から聞いたのは「印税が安い」と言っていたという。印税のことはにわかには信じがたいものだった。何しろ普段お金には執着しない恬淡とした人だったから。植物研究のために、赴任した千葉県の学校を定年になるまで転勤しなかった。それは給料面ではきわめて不利なことだった。戦前は転勤しないと昇級しなかったからだ。
 ここから私の推測になる。築地版では著者として沼田真・浅野貞夫と連名になっている。共著の扱いだ。これが問題だったのではないだろうか。この図鑑は植物生態図とその解説で構成されている。生態図が1ページを占め、解説がもう1ページのわずか数分の1、残りは空白だ。ブックデザイナーが大御所の杉浦康平でデザインに凝っている。ノンブルを左(偶数)ページに2ページ分まとめて表示しているなど、こんな大胆なデザインは初めて見た。空白も大きく取ってある。しかし、中心は誰が見ても生態図だ。沼田の解説は箇条書きで記されている。
 常識的に考えれば浅野貞夫著・沼田真監修くらいではないのか。どうみても著者は浅野だろう。出版社としては沼田の知名度に頼ったのではないか。だからこんな扱いにしたのだろう。おそらくこの表記に応じて、印税を半々か沼田を多くしたのではないのか。そうだとすると、浅野のイラストレーターとして扱われたとか、印税が少ないとかの発言がうなずける。
 浅野は明治の人だ。師である沼田に対して著者の扱いの不満を言いづらかったのだろう。しかし自負はある。だから絶版を申し入れたのだ。印税が少ないなどと言いつのって。不思議な理由によって。業績よりも筋を通すとことを選んだのだ。その頑固な浅野の自負・自尊がまぶしい。


浅野貞夫 日本植物生態図鑑
 浅野は築地書館から「日本植物生態図鑑」の刊行を断念した後、やはり沼田が編集する全国農村教育協会の「日本原色雑草図鑑」の執筆に協力することになる。その過程で、先に中断した生態図鑑をこちらの出版社から刊行することを決める。しかし実際にそれが「浅野貞夫日本植物生態図鑑」として完成したのは、浅野が亡くなって11年後の2005年だった。沼田も2001年、完成の4年前に亡くなっていた。築地書館の刊行からは35年が経っていた。