久保理恵子の絵を見て

 初めて久保理恵子の作品を見たのは1994年4月のなびす画廊だった。彼女の初個展ではなかったか。大きな横長の画面に一輪の黒い百合の蕾が一杯に描かれていた。「百合ですね」「分かりますか」という会話を覚えている。他に赤い花の作品もあり、DMにはこの作品が選ばれていた。華やかだったけれど、黒い百合の蕾の作品にすれば良かったのにと思った。


 しかし描かれた百合の蕾の形から見れば、黒く描かれた百合は本来白い鉄砲百合か山百合、カサブランカの類だったろう。それを黒く描いていることの不思議さ。黒く描かれながら艶やかで、背後に深い華やかさを秘めた百合はひときわ印象に残ったのだった。


 次回の個展のDMを送ってもらったのか、雑誌の案内で見て行ったのか、ギャラリー現での個展は強い違和感を感じた。同じ作家かと疑った。あの華やかな赤が消え色彩は寒色の紺色系統でまとめられ、激しい線が描かれた抽象表現主義的な作品に変わっていた。百合や花の形態はどこにもない。強い筆触が画面を走っている。


 次の個展もギャラリー現だった。寒色でまとめた抽象表現主義風の作風は変わらない。私はこの頃から久保がかつてのなびす画廊の作家だということを忘れてしまっていた。この作風にも魅せられながら、時にあのなびすで見た黒い百合の作家はどこへ行ったのかなどと思っていた。現での3回目か4回目の個展の時、履歴を読んでこの作家があのなびすの作家であることを知った。ずうっと忘れていた。それだけ作風が大きく変わったということなのだ。


 番町画廊での個展ではドローイングも展示してあった。そこには不思議なイメージが描かれていた。人が倒れており、そこから昇天するような形がある。何か魂が昇って行くような線が描かれているのだ。


 それを見た後でタブローを見ると、繰り返し画面に現れていた濃紺の線は魂の昇天を表しているのかも知れなかった。久保の絵に現れるものは純粋な造形的な形態なのではなくて何か象徴的なものを表しているのではないだろうか。抽象表現主義に似ながら、実は象徴主義の作家ではなかったか。


 今年のギャラリー覚での個展では新しい展開が見られた。色彩がこれまでとは変わり、暖色が戻って来た。象徴主義的な線は痕跡に変わり、画面の一部に奇数の点で表されている。激しい線が点になり、寒色が暖色に変わっている。作家の内面に二度目の大きな変化が起きたのだろうか。この後どのように変わって行くのだろう。

                           (2002. 5. 19)