高松プロダクション・吾嬬撮影所跡

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 墨田区曳舟駅周辺を散歩していたら十間橋通りの一角に小さなプレートが目についた。「高松プロダクション・吾嬬撮影所跡」とある。そのプレートの文章を引く。

高松プロダクション・吾嬬撮影所跡
          所在 墨田区京島三丁目62番
 日本映画の製作は、日活、松竹など四つの大手会社が占めていましたが、大正10年前後になると、短期間の内に幾つも独立プロダクションが生まれては消えていく混沌とした時期を迎えました。
 高松プロダクションの創始者・高松豊次郎は、始め、映画興業を通じて労働演説等の活動をしていましたが、大正6年(1917)6月に活動写真資料研究会を結成し、社会教育映画を製作するようになりました。この過程において、プロダクション創立後に協力しあうことになる牧野省三らと親交を結びました。また、「大東京」などの映画館を経営し、浅草六区 の興行組合長にもなりました。映画資料の収集にもあたりましたが、関東大震災で焼失しました。
 吾嬬撮影所のグラスステージは、高松プロダクションの活動拠点として、大正14年(1925)10月に建てられました。敷地は1000坪余り、現像室も100坪あったといわれています。主なスタッフとして所長兼監督山根幹人、文芸部今東光、俳優近藤伊与吉・草間実・西山普烈(江川宇礼雄)等がいました。この撮影所で「輝ける扉」(山本嘉次郎監督)、「愛染手綱」(高松操監督)など、42本の時代劇等を製作配給し、俳優では西山普烈・近藤伊与吉・滝田静江・高島愛子等を輩出しました。
 しかし、高松プロダクションは、提携していたマキノ映画社の撤退、監督の他プロへの移籍などにより、わずか1年数カ月の経営で休業状態に陥り、貸スタジオに転向せざるを得ませんでした。
 隅田川河畔にあった日活向島撮影所(現在の桜堤中学校敷地内)とともに、墨田区内に存在した映画撮影所として、日本映画史の一端を刻んでいます。
平成11年3月         墨田区教育委員会

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 1000坪といえば3300平方メートル、およそ60メートル四方の広さがある。山本嘉次郎今東光が関わっていたのか。現在では小さなプレート以外どこにも痕跡がないように見える。
 十間橋通りは片道一車線の小さな通りだが、近くに並行して走るキラキラ橘商店街がある。商店街の端に田丸神社という小さな神社があるが、お金が貯まるという御利益があることからこの名前があるらしい。その近くにはtowedやあをば荘というギャラリーもある。撮影所が消えて何十年か経って小さなギャラリーができ始め、千葉大学のデザイン部も誘致されてくるらしい。くまのパディントンがやってきた暗黒の地ペルーとまでは言わないが、墨田区も徐々に文化の光が灯ってきたようだ。