鹿島茂『病膏肓に入る』を読んで

 鹿島茂『病膏肓に入る』(生活の友社)を読む。副題が「鹿島茂の何でもコレクション」とあり、鹿島のコレクションを1ページのカラー写真で示し、それに関するエッセイを3ページにわたって書いている。肖像画から、ロダンの胸像のブロンズ作品(11万円)、独裁者に関するアイコン、ポスター、珍しいブックエンド(600ユーロ)、バスティアン=ルパージュの版画(20万円ほど)、ラブルールの1点ものの木版画(10万円)、アンティックな黒電話(100ユーロ)、マン・レイの着色銅版画(2,000ユーロ)、藤田嗣治の猫の版画(7万円)、ファルギエールのブロンズ像(ネット・オークションで9,000円)、毛沢東のゴム印セット(1万数千円)、ベルギーのデパートで使われていた整理箪笥(30万円)、ピエール・ボナールの「ルヴュ・ブランシュ」ポスター(ボーナス2回分)、代官山の鉄製水差し(18,000円)、ギュスターヴ・ピミエンタのテラコッタの少女像(500ユーロ)、スゴンザックの銅版画(10万円)、スランタンのクロモリトグラフィー「冬猫」(75万円)、などなど、60点が取り上げられている。
 コレクションの内容は鹿島のこだわった玉石混交だが、それを入手した経緯やコレクションについての蘊蓄がおもしろく語られている。このあたり流石稀代のエッセイストの面目躍如といったところ。
 コレクションの原則や定義について、

芸術的価値はさておいて、レアーゆえに尊しと見なす。


何の目的で描かれたのかわからない、使用価値が失われた謎のアイテム。/そのミステリアスな正体不明の性格がコレクター本能を逆に刺激する。/この意味で、骨董は美女に似ている。ミステリアスであればあるほど好奇心がかきたてられて、のめりこむのである。


骨董集めの究極の楽しみ、それは価値基準を「自分」で決めることなのである。


そう、パスカル先生の言う通り、人はモノを探すのではなく、モノの探求を求めるのである。


骨董買いの決断は、真贋の見極めにあるのではない。むしろ、アイテムに纏わる物語の「真実らしさ(ヴレサンブラス)」にある。つまり、小説と同じなのである。


骨董品の価値は主観にあり。骨董品店の主人が付けた値段で買う客が現れれば、それが価値になる。凡庸すぎるが、答えはこれしかないようだ。


なによりも感動的なのは、実用性というものを完全に失ってしまった物体が、その目的性の喪失にもかかわらずに長い間この世に確固として存在しつづけてきたという、「モノに凝縮された時間」の感覚である。これこそ、あらゆる骨董の本質にほかならない。骨董を買うということは、その骨董に込められた「時間」に対価を払うということを意味するのである。

 どうってことのない本なのにとても面白かった。
 何かコレクションしてみたい気がしてきたが、コレクターは金持ちでなければ不可能だということも分かった。いや、福田豊万さんは美術作品のコレクターでもあるが、画家たちのサインのコレクターでもあることで有名だ。もう何千枚も収集しているらしい。個展会場でDMはがきに直接画家のサインを求めている。



病膏肓に入る ─鹿島茂の何でもコレクション

病膏肓に入る ─鹿島茂の何でもコレクション