針生一郎が語る戦後美術概論の一端

 先月末の週に銀座の地球堂ギャラリーで奈良達雄遺作展が開かれた。奈良は独立美術の会員だったが、1997年に47歳で亡くなっている。没後10年展として府中市美術館市民ギャラリーで個展が開かれた一昨年と今回、針生一郎、本江邦夫、宮田徹也の3人の美術評論家がカタログにオマージュを寄せている。
 私は奈良について強い興味は持たなかったが、針生一郎の「奈良達雄論序説」に述べられている戦後美術概論の一端が面白かったのでここに紹介したい。

 わたしは1952年に美術批評に乗りだして以来、戦争末期に戦争と無関係な自画像や風景画ばかりならべて、抵抗の姿勢を示した〈新人画会〉のメンバーを中心とする〈自由美術〉が、公募団体展では唯一芸術運動の気風を保つとして親しくしてきた。ところが1963年、その〈自由美術〉から芸術派が運動派と離別する形で〈主体美術〉が分裂し、しかもわたしがもっとも信頼する麻生三郎、小野里利信、小山田二郎浜田知明らは、どちらにも残らずその前後に無所属となった。一方、わたしが上京以来〈夜の会〉などで影響を受けた岡本太郎は、55年二科展に外部から有望な作家を大挙リクルートしたが、東郷青児支配の大勢は変わらないことに失望したのか、61年にはひとり二科会を退会した。こうして、あらゆる公募団体は芸術運動とは無縁で、生活上の必要から集まった同業組合か様式会社だから、わたしは今後一切見ないという原則を以来自分に課したのである。もっとも、わたしは「公募団体を憎んで人を憎まず」と冗談半分につけ加えて、公募団体所属でも注目する作家の個展・グループ展には、見に行く余地を残しておいた。
 ところが1960年代末、前衛芸術はミニマル・アートとコンセプチュアル・アートという、両極の袋小路に入って国際的にゆきづまり、日本ではイメージとオブジェといった西洋風二元論をこえて、物質と人間の感動的な出会いをそのまま作品にするという、在日の李禹煥の理論のもとに組織された〈もの派〉が、東野芳明の提唱した〈反芸術〉の小刻みな変化に対し、タブラ・ラサ(白紙還元、盤面一掃)の作用を及ぼした。もともとわたし自身は、動き、光、大地などを新しいメディアとして芸術概念を一変させようとする「反芸術」に批判的で、一方〈もの派〉には芸術本来の人工性と虚構性を無視して、日本の伝統芸術と同様に自然に同化しすぎるのを疑問としたが、両方が激突して「前衛の終焉」とよばれる事態がおこったことは認めざるをえなかった。その上1970年代はじめ、東京国立近代美術館が竹橋に開館した記念に招待されて、西ドイツ美術批評の長老ヴェルナー・ハフトマンが来日したとき、「今は芸術運動よりも、個別的な作家論に集中すべき時期だよ」とわたしに語ったのが深く印象に刻まれた。わたしも「退役批評家」などと自称して、新人作家の発見よりも、ハフトマンがクレー論を書きあげたように、既知の代表的作家の論考を深化する方が大事だと考え、画廊の個展・グループ展に一番疎遠になったのが、この時期である。もっとも、〈もの派〉の衝撃を受けて近代日本美術史を自己流に総括した上、人工性と虚構性の再建にむかったいわゆる〈ポストもの派〉の方がわたしの興味を惹き、李禹煥自身も評論を発表しなくなってから、むしろユニークな造形的才能で国際的な評価を得たので、わたしの画廊まわりも数年後には再開された。
(後略)