女性美の基準が変わること

 知ってる娘が小さな映画の脇役に選ばれて、その制作発表の記者会見がネットにアップされている。彼女は、通っている専門学校の学校案内のパンフレットにも女子学生代表で選ばれていて、きれいな子なんだけど、やはり主役に選ばれた子と並ぶとどうしてもその差がはっきり見えてしまう。
 漫画家東海林さだおの、これは「週刊漫画サンデー」に載ったものだったか、山登りしていて山頂付近で知り合った娘たちの顔はきれいに描き、下山するとともに不細工な顔に変化させていった。山頂と里では美の基準が変わるのだ。結構毒のある漫画家だ。
 昔勤めていた自動車工場では全く女性を見なかった。何百人もいる職場が全員男だった。寮ではかろうじて売店に若い娘が一人、それに年配の寮母さんが何人かいた。売店のその娘のもてたこと! 
 美は相対的なものなのだ。映画女優やテレビタレントは皆きれいなのに、やれ大したことないの、顔のつくりがどうのと厳しい批判にさらされる。もし彼女たちが身近にいたら、どの女優やタレントであっても最高に美人に思えるだろう。見る側が日常の世界とスクリーンの世界では美の基準を変えているのだ。
 思うに映画女優やタレントに対する場合の美の基準が最も高く、バーのホステスや風俗嬢などに対する場合の基準が最も低くなるのではないか。いやもっと低いのが先に引いた山頂や自動車工場の男子寮だが。さて、それでは恋人に対する美の基準はどこらあたりにあるのだろう。