佐多稲子「夏の栞」

 佐多稲子「夏の栞ー中野重治をおくるー」(新潮文庫)を読んだ。最初に読んだのが文庫が出てすぐの頃だから十数年前になる。それから今回が2度目か3度目か。また読みたくなって書棚を探したがなかったので本屋へ行くと絶版になっていた。結局Amazonで買った。本は1円だったが送料が340円で合計341円だった。
 1979年の7月14日に新宿の女子医大病院に中野重治が入院するその前日から書き始められている。中野の日々の病状が綴られ、1か月少しの8月24日に亡くなって、そこまでが半分弱。残りで佐多と中野の50年の付き合いを振り返っている。
 佐多稲子は若いときカフェで女給をしていて、その店に来ていた「驢馬」の同人たちと知り合い、中の一人窪川鶴次郎と結婚する。同人はほかに堀辰雄中野重治らがいた。友人付き合いの中で中野は佐多に小説の執筆を勧め、佐多は「キヤラメル工場から」を書いて評価を得る。そこから佐多の作家活動が始まる。また佐多と窪川は中野と女優の原泉を結婚させることもした。中野も窪川も佐多も戦前の共産党に入党し、検挙されたりもした。その内に佐多と窪川は離婚する。しかし佐多と中野夫妻の付き合いは50年近くに渡っていた。そして冒頭の入院の場面となる。
 中野重治は胆のう癌だった。徐々に衰弱していく中野の症状に原泉夫人は神経がすり減っていく。佐多は遠慮しつつ彼らに寄り添う。亡くなる前日の中野の言葉が本書のハイライトとなる。

仰向いている中野は目をつぶり、それが眠っているかとも見え、私は原さんに並んで掛けたまま、ものを云わなかった。卯女さん(長女)が病室とロビーを行き来している。松下さんと曽根さんもいるが、みんな病室では声を押えた。私もまた、目をつぶっている病人の顔を見ているだけであり、中野は私のそこにいることを知らない筈であった。病室は広い窓があって明るかったが、その光線を避けて病人の顔の周囲には、いつものように紐を張ってタオルが掛けてある。
 その紐の一端が何かのはずみで解け、中野の顔の上に垂れた。中野の顔に当たるのでもなかったが、真上に垂れ下がった紐だから、私は手をのばしてそれを上にあげた。眠っているかと見えた中野にその気配が感じられたらしい。
「稲子さんかァ」
 と、弱く、ゆっくりと中野は声を発した。私の返事するまもなく、原さんがそれをとらえ、ぴしりと聞こえる調子で云った。
「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」
 それは以前に原さんがそう云ったことのある言葉とまったく同じ文句であった。中野の脚の冷めたいのを、さわってみて、と原さんが云い、私がそれに従ったとき、それが私だというのに中野が気づいた。そのとき原さんは今と同じことを云ったのである。原さんの、どうして、というのに私は答えようがない。私にもそれはわからないのだ。私としては、病人の神経の、弱っているようでいてどこかに残る敏感さか、とおもうしかなかった。今も、中野は原さんのそう云ったのを聞き取った。原さんの言葉に対して中野が答えたのである。
「ああいうひとは、ほかに、いないもの」
 そう聞いた一瞬、私は竦(すく)んだ。それは私の胸で光りを発して聞えた。ゆっくりと云った中野のそれは原さんへの答えだが、ひとりでうなずく言葉とも聞え、私にとってそれは、大きな断定として聞えた。中野自身は、自分のその言葉を、云われた当人が聞いている、と知っていたであったろうか。その意識はないように見えた。私だけがその言葉を強烈に聞き取った。私は中野のそう云うのを自分に引きつけて、ほめ言葉と受け取ったのである。しかしそのほめ言葉にどう対応のできる今の状態ではなかった。中野はあるいは混濁した意識において意味もなくつぶやいたということかもしれない。私はわが胸の一方でそうもおもって引下がりながら、そのまま黙っていた。原さんもその瞬間、答えに詰まったようであり、そのまま何も云わなかった。
 私が今、自分へのほめ言葉と受け取った中野重治のその言葉をここに書くのには、神経への抵触を感じる。しかしまた書かないなら、それはつつしみではなく自分にとって偽善になるという感じをどうしようもない。大仰なひとりのみ込みを晒す結果ではあっても、私は書きとめておきたい。しかもそれは、中野から私が聞いた言葉として最後のものでもあったという理由が私を許す。会話とはならなかった。それは中野の半ば独り言であった。がそれは、自分に引きつけて受け取れば私について云われた、私の、誰からも云われたことのない最上の言葉であった。それも、長年のつきあいのうえで云われたのであれば、私がどうして書かずにいられよう。こんな私の感情自体も、この長いつきあいの間の、中野重治に対する私の立場をあらわしていようか。

 佐多稲子が書き辛そうにして書いていることから読みとれるのは、微かではあるがくっきりとした佐多と中野の秘められた愛情だ。そのことを佐多が屈折してこのように書いていることを見事だと思うのだ。
 もともと自然主義文学とプロレタリア文学が嫌いで、それらをほとんど読んだことがなかった。中野重治でさえ、詩集くらいしか読んでないのではなかったか。この後、佐多稲子を何冊か読むことになる。文章の張りが幸田文に似ていると思ったことだった。

 若い頃は吉行淳之介が好きだった。吉行に佐多のこの作品にも通じる屈折を感じていてそれが好きだったのだ。
 十数年前、「夏の栞」を数冊購入して友人たちに配ったことがあった。そんなことをした本は他にランボーの「地獄の季節」とに野見山暁治の「四百字のデッサン」だけだ。

 父さん、なんか元気がないけどどうしたの? と娘が聞く。いやちょっと悲しい本を読んでいるからと答えると、正月からそんな本読まなきゃいいのにと言われた。読んでいて悲しいのに、それを読み継ぐのが大きな喜びなのだ。なぜなんだろう。


※2010年7月に講談社文芸文庫から発売された。

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)

夏の栞―中野重治をおくる― (講談社文芸文庫)