西東三鬼『俳愚伝』を読む

 西東三鬼『俳愚伝』(出帆社)を読む。正確な書名は『神戸・続神戸・俳愚伝』というのだが、「神戸・続神戸」は先日新潮文庫で読んだので、それ以外の収録作を読んだ。
 西東三鬼は戦前京大俳句会で特高に連行されて検挙され、起訴はされなかったものの不起訴ではなく、起訴猶予という扱いで釈放されたが、2年間は保護観察の監視を受けることになった。執筆も禁止された。
 三鬼の俳句の何がいけなかったのか。1927年モスクワのコミンテルンは「日本に関するテーゼ」を決定した。コミンテルンは日本の共産主義文芸の基礎はプロレタリア・リアリズムによるべきことを決定した。その結果、特高にとって、「リアリズム」という言葉を使うだけで「それはコミンテルンの支持を伝播拡大した」ことになるというのだ。
 しかし三鬼は以前、リアリズムを態度と手法に分け、態度のリアリズムは俳句を階級闘争の場に限定するからと批判し、俳句におけるリアリズムは手法にとどまると書いていた。にも関わらず警察本部はそれを「リアリズムを否定する擬態をもって、大衆の注意を喚起したのだ」と決めつけてきた。
 三鬼は歯科医師だったが、患者たちから勧められて30歳を過ぎてから俳句を作り始めた。以来俳句に没頭し、仕事も家族もなげうって俳句の道に突き進んだ。そして京大俳句の仲間と新興俳句にのめり込み、特高の弾圧にあった。それからのことは『神戸・続神戸』に詳しい。
 戦後については三鬼の参加した俳句の結社のことが語られる。
 三鬼がまだ歯医者をしていた頃、歯科医師の仕事よりも、毎日交代で現れる仲間の俳人たちと俳句論などで油を売っている方を好んだが、それでも患者は一向に減らず、多い日は50人も診療したと書いている。
 このことについて、『神戸・続神戸』を紹介した私のブログに長谷見さんがコメントを書いてくれた。

西東三鬼は歯科医で、私が幼児からお世話になっていた歯科医の先生が戦前、同じ職場にいたことがあったとのこと。美男で優しく、女性には大変、モテて、斎藤先生(本名)をご指名の女の患者が多くて困ったとおっしゃっていました。

 なるほど西東三鬼はハンサムだったんだ。それで流れていった神戸でもモテまくり、癌で余命幾ばくもない母親のために孫を作ってあげたいからと子種を懇願され、その希望をかなえてあげたということがあったほど。
 とても面白く読んだ。新潮文庫はこの『俳愚伝』を単独で文庫化すべきではないか。

 

 

神戸・続神戸・俳愚伝 (講談社文芸文庫)

神戸・続神戸・俳愚伝 (講談社文芸文庫)

 

 

 

神戸・続神戸・俳愚伝 (1975年)

神戸・続神戸・俳愚伝 (1975年)