谷川俊太郎『夜のミッキー・マウス』(新潮社)を読む。2003年に発行された詩集だ。詩集の題名にもなった「夜のミッキー・マウス」、それから「朝のドナルド・ダック」、「詩に吠えかかるプルートー」、「百三歳になったアトム」なんて詩が並んでいる。谷川は巧い。なんでもすらすら詩にできちゃうみたいだ。「なんでもおまんこ」なんていう過激な題の詩がある。冒頭を引く。
なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよ
でも内容が過激なのは「ああ」だ。
ああ
あああ
ああああ声が出ちゃう
私じゃない
でも声が出ちゃう
どこから出てくるのかわからない
私からだじゅう笛みたいになってる
あっ
うぬぼれないで
あんたじゃないよ声出させてるのは
あんたは私の道具よわるいけど
こんことやめたい
あんたとビール飲んでるほうがいい
バカ話してるほうがいい
でもいい
これいい
ボランティアはいいことだよね
だから私たち学校休んでこんな所まで来てるんだよね
でもこのほうがずっといい
どうして
苦しいよ私
嬉しいけどつらいよ
あ
何がいいんだなんてきかないで
意味なんてないよ
あんたに言ってるんじゃない
返事なんかしないで
声はからっぽだよこの星みたいに
もういやだ
ああ
ねえあれつけて
未来なんて考えられない
考えたくない
私ひとりっきりなんだもの今
泣くなって言われても泣いちゃう
ああ
あああ
いい
これを読んで荒川洋治の「渡世」を思い出した。同じ名前の『渡世』(筑摩書房、1997年)という詩集に載っている。106行もある長い詩だ。で、その一部を。
風物詩といわれる
堅固な
「詩の世界」がある
それはいかにも暴力的なものであるが
たしかに
あちらこちらに
詩を
感じることがある
詩は
そこはかとない渡世の
あめあられの
なかにあるのだから
「お尻にさわる」
という言葉を
男はひんぱんに用いる
なかには言葉の領海を出て
「少しだけだ、な、いいだろ」と女性に迫ったために
ごむまりのはずみで
渡世の外に
追い出された人もいる
「だめよ、何するのよ」「ちょ、ちょっと、よしてください!」
と女性は
いつの場合も虫をはらうように
まゆをひそめるのだが
お尻にさわるのもいいが
お尻にさわるという言葉は
いい
佳良な言葉だと思う
あそこにはさわれない
でもさわりたい、ことのスライドの表現
のようでもあるが
そうではない
この言葉には
核心にふれることとは
全く別の内容が
力なく浮かべられている
若いすべすべの肌にふれ
「いのちのかたち」をたしかめたい男たちは
まとを仕留めたあとも
水が
いつまでもぬれているように
目をとじたまま お尻に
さわりつづける
ぺたぺた。
ちゅう。ちゅう。
「ね、うれしいんでしょ。これで、いいんでしょ。
でも、どうして、そんな顔になっていくの?」
(後略)
荒川洋治、荒地グループ以外では好きな詩人の一人だ。
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