瀬川拓郎『縄文の思想』(講談社現代新書)を読む。「縄文の思想」と題されている。瀬川は「はじめに」で、本書は「考古学と神話から具体的な資料にもとづいて縄文の思想をあきらかにします」と書いている。縄文の思想? って思ったが、読み終わって、それに成功していると感じた。瀬川は北海道の旭川市博物館館長で、考古学者でアイヌ研究者である。文字に残されていない縄文の思想を、考古資料や神話、伝説を解析して露わにしてみせている。
瀬川はアイヌと古代海民の神話・伝説には共通するモティーフがあるという。古代海民の思想は『古事記』『日本書紀』『風土記』に表れている。両者に共通する伝説のひとつは、海の神が山頂の女神のもとへ往還する物語だ。それは農耕が行われる平野を含まない、海と山からなる世界観で、非農耕民的な世界観だという。この世界観は彼らの他界観と結びついていて、アイヌと古代海民の他界は地下にあり、海辺などの洞窟を入り口とし、山頂を出口とする共通の構造を持っているという。それは南島にも分布し、折口信夫は「まれびと論」を唱え、このような世界観が古代日本の知識体系と断絶する「前古代」「前日本」の世界観、いわば縄文的な世界観であると考えていた。
瀬川は、このような周縁の人びとの世界観・他界観が縄文に起源するものであることを、考古学の成果から論じていく。
興味深いエピソードが次々と語られていく。近現代になってもイレズミという縄文伝統の習俗をとどめる人びとがいる。アイヌ、南島の人びと、家船(えぶね)漁民とよばれた海民などだ。抜歯という縄文習俗もみられた。また隼人言葉とアイヌ語の共通性。出雲方言と東北方言(ズーズー弁)の共通性は古代海民が海岸線を伝って北上して移住したためという。北海道の余市町に残る洞窟壁画と本州の海民の古墳壁画との共通性。森や林をヤマ(山)と呼ぶ地域の分布から、それを海民との関係を示していると説く。そういえば昔栃木の小山市の知人を訪ねたとき、平地に雑木が生えているところを山というので、薪を採るために残している場所を山と呼んでいるのかと不思議に思ったが、あれは古い呼称だったのか。
海民やアイヌのあいだで行われていた贈与や分配が、本来はタマシイの贈与や分配を意味していたと言い、
谷川(健一)は、平等とは分配の平等のことであり、なぜ漁民が惜しみなく分配することができたのかといえば、それが神からの授かりものだったからだ、とのべます。
そのうえで谷川は、神を抜きにした分配の平等は可能か、と問いかけます。
1918年、武者小路実篤が始めた「新しき村」は人道主義にもとづく平等の生活をめざしたが、「あの家はコーヒーに入れる砂糖の量が多すぎる」などといった喜劇的な状況が生じた。
そこで谷川は、神を抜きにして、あるいは生活者の思想から遊離した神によっては、平等は生まれないとのべています。海民の平等は、水平的な贈与だけでなく、神からの贈与という垂直的な関係をくみこむことによって、はじめて実現するものだったのです。
末尾で瀬川は書く。
網野(善彦)は、海民が農耕民とは異なる独自の世界を持ち、農耕民がその生活を維持するうえでなくてはならない交易相手であったこと、中世や近世初期の商人の出自も圧倒的に海民であったことなどをあげ、日本の社会像をいちじるしくゆがめてきた閉塞的な「島国論」「稲作一元論」を克服するため、なにより海民の社会と歴史の研究を早急に充実させる必要がある、と訴えたのです。
網野はまた、私たちの課題は、日本列島の自然のなかで形成されてきた社会の個性を、国家成立のはるか以前にまでさかのぼって明らかにすることであり、そのなかにこそ日本と国家を超える思想と論理があるはずだ、とのべました。
本書は、この網野の海民論に折口信夫のまれびと論を接合しながら縄文へ遡及しようとする試みであり、ともに基層の思想を明らかにしようとした二人の偉大な研究者が、射程におさめつつ果たすことができなかった縄文へのアプローチに、ひとつの具体的な方法を示そうとするものなのです。
縄文と海民史観の接合は、日本人とは異なる自意識をもちながら、縄文の思想をとどめてきたアイヌと南島の人びとの歴史との架橋も意味します。そしてこの縄文による架橋は、日本列島の人びとを縄文に回収しようとする本質主義的な試みではなく、単一民族的な日本人論や日本文化論の枠組みを開きながら、そこに共存の展望をみいだそうとする、同化と排他の「あわい」の試みにほかなりません。
いや、こんな地味なテーマの本がとてもおもしろかった。
- 作者: 瀬川拓郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/11/15
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (4件) を見る