佐藤正午『きみは誤解している』を読む

 佐藤正午『きみは誤解している』(岩波書店)を読む。先日、森巣博『賭けるゆえに我あり』というギャンブラーのノンフィクションを読み、ギャンブラーに興味を持ったことから本書を読んだ。これは競輪ファンの物語だ。選手ではなく車券を買う方の、ギャンブラーが主人公になっている。どういう心理でその車券を買うのか、素人以下の私にも競輪ファンの気持ちの動きが追跡できるような気がした。
 そういう意味ではとても面白く読んだ。競輪を何も知らなくても引っ張っていってくれる。それは作家の筆力だろう。作中、主人公のところに、すでに亡くなっている阿佐田哲也が降臨するようなシーンがある。競輪の世界ではやはり阿佐田の存在が特別なようだ。その阿佐田を書いた伊集院静の『いねむり先生』を読んだことがある。最初にテレビドラマを見て、ついでその原作の伊集院の小説を読んだのだった。
 伊集院の小説では先生=阿佐田哲也の描き方が十分ではなかったという印象が強い。若くして妻を病気で失った「私」が自暴自棄になっていたとき、先生と出会ってギャンブルにのめり込み、妻を亡くした悲しみから回復していくという部分に主眼があったのかもしれないが、タイトルになっているのは「いねむり先生」で、その先生は麻雀でも伝説的な打ち手であり、競輪の世界でもほとんど神格化されているような存在なのだ。もう少し先生のことが描き込まれていても良かったのではないか。
 『きみは誤解している』を読んで、ギャンブルの奥深さをやっと少し認識した。その奥深い世界を阿佐田哲也はどんなふうに書いているのだろう。
 昔からギャンブルには縁も興味もなくて、全く知らない世界ではあるが、ギャンブルにはまって財産も人生もほとんどすべてを失った親族がいることもあり、なぜそんな風にはまっていくのか気にはなっていたのだった。数年前に亡くなった友人もパチンコにのめり込み、何度もサラ金のやっかいになって、その都度親に借金して払っていたという。
 本書に戻ると、競輪ファン(というのだろうか)を描いてとても完成度が高い小説だと思う。同時にここから競輪と言う縛りをなくしても、ある種の普遍性に届きつつあるのではないかとも思える。でありながら、何か不満が残っているのも事実なのだ。


きみは誤解している (小学館文庫)

きみは誤解している (小学館文庫)