後藤明生『小説−−いかに読み、いかに書くか』(講談社現代新書)を読む。30年ほど前に発行されたやや古い本。後藤は当時早稲田大学文学部文芸科で非常勤講師を1年間つとめ、その後NHK文化センターの講座を長く担当した。そのNHK文化講座で話したことをカセットテープに録音してもらい、その1年3カ月分のテープを編集部が原稿に起こし、本書はそれを元に書き直したものだという。そんな経緯から本書のこのタイトルが付けられた。
しかし読んでみれば、「いかに書くか」は不要かもしれない。テキストとして取り上げているのは、田山花袋『蒲団』、志賀直哉『網走まで』『城の崎にて』、宇野浩二『蔵の中』、芥川龍之介『藪の中』、永井荷風『墨東綺譚』、横光利一『機械』、太宰治『道化の華』『懶惰の歌留多』、椎名麟三『深夜の酒宴』の10冊。これらを素材に小説のスタイル=形式を分析している。そういう意味では近代日本小説論と言ってもいいだろう。
田山花袋『蒲団』から始まり、全体の2割をこの章に充てている。『蒲団』に対する中村光夫の激しい否定を引用する。中村は「事実」を「告白」しさえすれば小説になるという「私小説」の悪しき源流となった、と批判した。それに対して後藤は『蒲団』を擁護する。花袋は事実をありのまま書いているのではなく、主人公を完全な「道化」として書いている。意識した「戯画化」である。また事実に見せかけたフィクションであると。この逆転は鋭い指摘ではないだろうか。
志賀直哉の文体を分析して、「他者」との関係の拒絶だと言っている。志賀直哉の主人公は一方的に他者を見るだけで、「見る←→見られる」という、他者との関係が成立しない。さらに、後藤は志賀直哉の文章は普遍化を拒絶するという。
(志賀文学が)「神格」化し「神話」化するということは、分析を拒絶するということである。分析を拒絶することは、一般化、普遍化を拒絶することである。一般化、普遍化を拒絶することは、特殊化することである。そして特殊化することは、すなわち「神格」化することである(……)
さらに、小林秀雄の志賀直哉論を引用して、「志賀直哉の「文学」「小説」の中には、作者=主人公と異る「目」を持った「他者」は、存在できない」と結論付けている。
後藤明生を読み直したのは、後藤のことを金井美恵子が評価しているからだ。Wikipediaで見ると、1999年に67歳で亡くなっている。小説はまだ読んだことがない。『吉野大夫』『首塚の上のアドバルーン』『挟み撃ち』などが代表作らしい。何か読んでみよう。
小説―いかに読み、いかに書くか (講談社現代新書 (684))
- 作者: 後藤明生
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1983/03
- メディア: 新書
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