幸田文『北愁』を読む

 幸田文『北愁』(講談社文芸文庫)を読む。群ようこの解説に、「お孫さんの青木奈緒さんによると、〈祖母が書いた女性の中で、もっとも幸田文本人に近い主人公〉とのことである」と書かれている。
 文章を書く仕事をしている父親は、主人公である娘のあそぎの母親を早くに亡くし再婚している。幸田文の父親幸田露伴を思わせる設定だ。あそぎの子どもの頃から、あそぎが成長し結婚して娘が生まれ、夫が破産し、やがて幼い頃から親しんでいた従兄が病気で亡くなるまでを描いている。現実と異なっている部分はあり、あそぎは夫の破産に際して離婚を選ばない。
 近い世界を書いたのが、短篇の「黒い裾」だった。『近代日本短篇小説選 昭和篇3』(岩波文庫)に収録されている。ここにも同じ従兄が少し姿を変えて重要な登場人物として描かれていた。
 小説はあそぎの視点から語られている。描写はみごとで、まるでイタリア製の目の詰んだツィードの生地のように隙がない。あそぎの心の動きが正確に精密に描かれていく。ときに息苦しいほどだ。そのような描写に関しては、ひとつの達成と言って良いかもしれない。ただ、それでありながら同じ作者の『流れる』と比較すれば多少見劣りがしてしまうのはなぜだろう。
『流れる』にあって『北愁』にないものは何か。それは社会性といったものではないか。前者には主人公が違和感を抱く勤め先の置屋の実態や、置屋のおかみさんの驚くべき習慣や起居振る舞いが印象的だった。それらを冷静に見据えて分析する主人公の造形が優れていた。『北愁』の主人公あそぎは、夫との生活の違和感や、従兄との性格の違いなどが書かれても、それらは社会的な広がりを持たない。『流れる』のような驚き、分析があまり見られない。それが傑作『流れる』の後塵を拝することになった理由ではないかと思われるのだ。そのあたりを書ききれば佐多稲子と甲乙つけがたかったかもしれない。


北愁 (講談社文芸文庫)

北愁 (講談社文芸文庫)