幸田文『流れる』を読む

 幸田文『流れる』(新潮文庫)を読む。何十年ぶりかの再読だが、すばらしさに圧倒される。昭和の樋口一葉といった印象だ。
 芸者置屋へ住み込みで働いた経験を小説にしている。女中として働くが幸田文は父幸田露伴に家事等を徹底的に仕込まれている。この作品の主人公は梨花という名前だが、女中らしく春はどうなんて言われる。
 働き始めてしばらくして家中留守の時に現金を届けてきた者があった。受取りをと言われてありあわせの紙きれに台所の鉛筆で受取りを書く。届けてきた男がその受取りをしげしげと見る。

(……)不安が拡がって、「私、書式をよく存じませんけれど――」
「いえ、驚いているんですよ。みごとですなあ、達筆っていうんでしょうな。よほど書きなれた字ですものね。あなたここへ来るまえ何してなさった。……や、これは失礼、いや失礼しました。人間どこにいても過去ってものがついて廻りますからな。隠せないものですよほんとうに。」

 病気の孫が医者を怖がり置屋の主人にかじりついた。この時の情景が描写される。

主人は子どもに纏られながら、膝を割って崩れた。子どものからだのどこにも女臭い色彩はなく、剥げちょろゆかただが、ばあばと呼ばれる人の膝の崩れからはふんだんに鴇色がはみ出た。崩れの美しい型がさすがにきまっていた。子どもといっしょに倒れるのはなんでもない誰にでもあることだが、なんでもないそのなかに争えないそのひとが出ていた。梨花は眼を奪われた。人のからだを抱いて、と云っても子どもだが、ずるっ、ずるっとしなやかな抵抗を段につけながら、軽く笑い笑い横さまに倒されて行くかたちのよさ、しがみつかれているから胸もとはわからないけれども、縮緬の袖口の重さが二の腕を剥きだしにして、腰から下肢が慎ましくくの字の二ツ重ねに折れ、足袋のさきが小さく白く裾を引き担いでいる。腰に平均をもたせてなんとなくあらがいつつ徐々に崩れていく女のからだというものを、梨花は初めて見る思いである。なんという誘われ方をするものだろう。徐々に倒れ、美しく崩れ、こころよく乱れて行くことは、横たわるまでの女、たわんで畳へとどくまでのすがたとは、人が見ればこんなに妖しいものなのだろうか。知らなかったこんなものだとは、――きまりわるく、それでも眼を伏せることができず、鮮かな横さまの人をあまさず梨花は捉えていた。

 長い芸者生活で身に付いた媚びの芸術的とさえ言えそうな見事な技術。媚びをエロスにまで高めたプロの技。なるほど、これが玄人のやり方なんだ。岡崎裕美子の短歌に倣って言えば、「玄人も外国人も知らないでこのまま朽ちてゆくのか、からだ」、いやはや、何を言っているのか。
 幸田文は父幸田露伴より、娘青木玉よりはるかに優れていると言える。昭和の女流作家としては佐多稲子とどっちが上だろう。


流れる (新潮文庫)

流れる (新潮文庫)