塩田明彦『映画術』がすばらしい

 塩田明彦『映画術』(イースト・プレス)を読む。副題が「その演出がなぜ心をつかむのか」といい、2012年の春から秋にかけて映画監督の塩田が映画美学校アクターズ・コース在校生に向けて行った連続講義を採録したもの。そうすると、俳優向けの講義と思われるだろうが、まあ実際そうではあるのだが、映画を見る観客に対しても映画の見方としてほとんど最高の講義でもあるのだ。すばらしい。実際、こんな風に映画を見ることなんて誰も教えてくれななかったし、知りもしなかった。
 7回の講義で取り上げられるテーマは、「動線」「顔」「視線と表情」「動き」「古典ハリウッド映画」「音楽」「ジョン・カサヴェテス神代辰巳」。こう書くと内容は想像もつかないが、これが毎回眼から鱗の驚きなのだ。
動線」では成瀬巳喜男監督の『乱れる』溝口健二監督の『西鶴一代女』が取り上げられる。

 この映画(『乱れる』)をひと言で言うと、「ひとつ屋根の下で暮らす男女が、越えてはいけない一線を越えるかどうか」という話です。
 世の中には「越えてはいけない一線」というものがある……。この作品は、小説ではなく映画なので、「越えてはいけない一線」を視覚的に実在させなきゃいけない。そしてそれを本当に越えさせなきゃいけない。越えた瞬間、ハッと驚くような事件にしなくてはいけない−−演出の要はすべてそこにあるんです。
 そのために成瀬巳喜男はどのように人物を動かしているのか? どのような動線を設計しているか。
 この映画では俳優たちの芝居にものすごい緊張感が漂いますが、それは周到に用意された動線に沿って彼らが動いているからなんです。ということを今から実証していきたいと思います。

 塩田が映画のシーンに沿って具体的にそれを語っていく。本当に見事に実証するのだ。
「顔」では、ヒッチコックの『サイコ』と、そのリメイク版のガス・ヴァン・サント監督の『サイコ』が論じられる。ヒッチコックのすごさがよく理解できる。

 映画における「顔」とは、僕らが思っている以上に複雑怪奇なんです。多様なんです。僕はそれを、ハッタリを込めて、「映画のなかでは、顔で戦争が起こっている」と言っています。ひとつの顔のなかで複数の要素がものすごい緊張関係にある。俳優の顔というのは、バルカンの火薬庫なんです。常にせめぎ合っているんです。無表情でもせめぎ合っている。

 塩田の説明でそのことがよく分かった。仮面ですら雄弁になる。それは「観客には想像力があるからです。観客は仮面の中の視線や瞳の動き、声の感触だけで、ほとんど彼女の内面を察知することができる。