ハイデガー「現象学の根本問題」の新聞広告


 2月3日の朝日新聞哲学書の広告としては異例の大きな新聞広告が掲載された。ハイデガーという20世紀最大の哲学者の決してやさしくはない本格的な哲学書で、分厚くて5,040円もする。この大きさの広告代は200万円くらいするのではないか。この広告のコピーから、

待望の木田元訳で、遂に刊行!
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未完の主著『存在と時間』の欠落を補う最重要の講義録。アリストテレス、カント、ヘーゲルと主要存在論を検証しつつ時間性に基づく現存在の根源的存在構造を解き明かす。

 出版元の作品社がこんな大きな広告を出すのは自信があるからに他ならないだろう。しかしハイデガーは他の出版社から全集も出されているのになぜか。
 毎日新聞の「2010年この3冊」の1冊に評論家の三浦雅士がこの「現象学の根本問題」を選んでいる。

マルティン・ハイデガー木田元監訳「現象学の根本問題」(作品社)

 これは、立ち読みでもいいから、まず「訳者あとがき」を読むこと。邦訳全集に収録されているにもかかわらず、なぜテキストを変えてまで別の翻訳を刊行しなければならなかったか、理由が分かる。その後に全編、読みたくなる。「存在と時間」の「全面的なやりなおし」だから主著に次ぐ必読本。講義にふさわしい口語訳なので、確かにじつにわかりやすい。

 私もあとがきを立ち読みした。簡単に言えば本書がハイデガー理解に大変重要なこと、しかし既刊の全集の訳がひどいため、翻訳権の問題をクリヤーして新訳を刊行したのだった。
 ハイデガーの代表作「存在と時間」はきわめて重要な哲学書であるが、翻訳がひどい。しかし翻訳出版権の問題から新たに新訳を出すことができない。ただ、「存在と時間」は未完のままに終わっている。ハイデガーはその問題を追求するために再度講義で取り上げた。今度は「存在と時間」で触れることのできなかった後半部分から語り直す。その講義をまとめたものが「現象学の根本問題」なのだ。これもすでに既訳がある。だが、作品社と監訳の木田元は裏技を使って新訳を刊行した。
 その方法とは! 戦前ドイツマルクは天文学的なインフレだった。日本からの留学生はドイツではマルクに対する円高によって潤沢にお金を使うことができた。ある留学生がドイツの学生を雇ってハイデガーの講義の速記録を作らせた。日本に帰国後それを少部数印刷発行して研究者たちが利用した。日本に十数年後れて、ドイツでもその講義録が出版された。その出版にはハイデガーも関わって手を入れている。日本での出版(海賊版)はハイデガー校閲も受けていないし誤りもあるようだ。しかし、ドイツでの正式な原本のほかに、日本で作られた別のテキストが存在するということになる。このいわば日本版を定本として今回の新訳が完成したというわけだ。もちろん正式なドイツ版を参照して誤りは訂正してあるという。
 この「現象学の根本問題」の新訳が、分かりやすい翻訳とさらに「存在と時間」に準ずる重要な文献であるとして、出版社が大きな自信を持って広告費を投入したのだろう。これは読んでみたいと思う。
 なお、ハイデガー存在と時間」が未完に終わって、それを完成させるために改めて再講義をしたこと、しかしそれも未完に終わったことは、木田元ハイデガー存在と時間』の構築」(岩波現代文庫)を読むとよく分かる。しかも木田はハイデガーが完成させられなかった「存在と時間」の概要を構築してしまったのだ。
 この辺のことを以前ブログで簡単に紹介したことがあった。

未完の大作「カラマーゾフの兄弟」と「存在と時間」(2007年8月12日)

現象学の根本問題

現象学の根本問題

ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)

ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)