サガンの「悲しみよ こんにちは」の新訳

 フランソワーズ・サガンの「悲しみよ こんにちは」の新訳が新潮文庫から発行された。いや昨年の1月に発売されたから新しい話題ではないけれど。訳者は河野万里子、前の訳者朝吹登美子の訳本を読んで育った人だ。私も45年ぶりくらいの再読。当時私は高校生だったので、1、2歳上の女性がこんなものを書いているなんてと圧倒されたのだった。本書に続けて「ある微笑」「一年ののち」「ブラームスはお好き」「すばらしい雲」とまとめて読んだ。それっきり読まなくなったが。
 今回読みなおして、もうこのような恋愛小説に心動かされなくなっているのが分かった。恋愛そのものが深く興味を惹かれるテーマではないのだ。サガンの小説がうまいとは思ったが。
 巻末に作家の小池真理子が「サガンの洗練、サガンの虚無」というタイトルで解説を書いている。サガンの洗練には異を唱えるつもりはない。

 一度でもサガンを読んだことのある読者なら、作品の中に漂っている虚無の香りに気づかないはずはない。それは、これ以上ないほど洗練された描写の中にまぎれこみ、目を凝らさないとはっきりとは見えてこない。

 私は虚無とは縁遠い性格で、今も昔も脳天気にノーストレス、楽天的な世界観で生きてきた。だから直接に虚無を体験して発言するのではないが、それでも師である山本弘と、友人である原和が虚無を生きたことをよく知っている。事実二人とも自分から死を選んでいる。その経験から言えば、サガンにあるのは決して虚無なんかではなくて倦怠にすぎない。「悲しみよ こんにちは」を書いた時18歳のブルジョワ娘が虚無を抱えていたとはとうてい思えないのだ。
 私も高校生の頃はサガンを夢中になって読んだと思う。本書のエピグラフのエリュアールの詩も印象に残っているし、「ブラームスはお好き」か何かのエピグラフ「そんな風に考えてはいけない。そんなことをしたら気違いになってしまう」という「マクベス」からの台詞は今も憶えていて、何か問題が起こって悩んだ折りなど思い出している。大江健三郎の「水死」にもこれが引用されていて、ああ大江もサガンを読んでいたのかと少しだけ驚いた。
 ついでに「すばらしい雲」のタイトルはボードレールの詩から採られていて、エピグラフも「あそこに、あそこにすばらしい雲が」と引用されていた。
ブラームスはお好き」は登場人物がブラームスは好きかと演奏会に誘う台詞だったが、サガンがこれを書いた数年後、吉行淳之介は小説の中で主人公にクラブのママに対して、BGMをメシアンの「世の終わりのための四重奏曲」にしたらどうかと言わせている。二つはあまり関係ない連想だが、オッシャレーという視点から見れば共通性があるのではないか。どちらもオッシャレーを提案している。しかし私も接待で銀座の二流のクラブを何軒も使ったが、ついぞメシアンが流れて違和感のない店には縁がなかった。あるいは吉行の通った一流のクラブは違ったのだろうか。客1人のチャージが10万円だったという銀座6丁目にあった超一流クラブ「エレガンス」ではメシアンやベルクが流れていたのだろうか。
 サガンからメシアンに来てしまった。

悲しみよ こんにちは (新潮文庫)

悲しみよ こんにちは (新潮文庫)