山本健吉「古典と現代文学」を読む

 以前も紹介したが、丸谷才一の「文学のレッスン」(新潮社)に山本健吉「古典と現代文学」が絶賛されていた。

湯川豊  日本のこの分野、文学史的批評の代表というと……。
丸谷才一  まず頭に浮かぶのは、山本健吉『古典と現代文学』。エリオットの「伝統と個人の才能」に啓発され、その前に折口信夫に基本的なことを教わっていたわけですから、この二つでできたものなんですね。僕は日本文学総論で最高のものはこの『古典と現代文学』じゃないかと思っているんですが、みんながちっとも褒めないというか、読まないというか、ちょっと不思議なんだな。題が悪いのかしらね。
湯川  うーん、手にとってみたいというタイトルではないかもしれません。
丸谷  もう一冊、山崎正和『不機嫌の時代』。これまた名著です。古典日本文学を論じては『古典と現代文学』、近代日本文学を論じては『不機嫌の時代』、これが二大名著じゃないかと思いますね。

 それで「古典と現代文学」(講談社文芸文庫)を読んだ。柿本人麻呂や旅人、憶良、赤人ら万葉集歌人たちから、伊勢物語源氏物語、新古今、能、俳諧近松西鶴を論じてこんなに面白い日本文学総論はほかに加藤周一「日本文学史序説」くらいだ。そして加藤に比べて作品の分析がもっと丁寧で実作に即している。

 俳句は元来、単独の場で抒情詩として成立したものではない。それは連句の発句であり、俳諧の座が結晶させたものである。前にシェイクスピアの詩劇について言ったことのアナロジーとして言うなら、俳句はかつて芭蕉の時代に、それが連句の発句として達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達したことは一度だってないのである。それはちょうど、短歌が人麻呂の時代に、鎮魂の役割を担った長歌反歌として達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達することができなかったのと同様である。

 この本を図書館で借りて読んだのだが、丸谷才一の言う「日本文学総論で最高のもの」であるとの評が納得できて、改めて買おうと思ったら品切れになっていた。Amazonでも古本に2,000円の値段がついている。「絶版にしない」と謳っていた講談社文芸文庫で品切れなのは相当売れなかったのにちがいない。これだけの内容で売れないとは題名のせいとしか考えられない。
 裏表紙の惹句によれば、本書は著者のライフワーク『詩の自覚の歴史』の源流になった名著。読売文学賞受賞作の由。