加藤周一「日本文学史序説」からの抜粋

 加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫)がすばらしい。「日本では、文学史が、日本の思想と感受性の歴史を、かなりの程度まで、代表する」ので文学史を語ることが思想史を語ることになるのだ。「比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的になったのである」
 ここではとりあえず上巻から、そのエッセンスを抜粋したい。

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 第1章 『万葉集』の時代

(山上)憶良は大陸文学を模倣したから、わが国で独特の文学をつくったのではない。大陸文学を通じて、現実との知的距離をつくりだす術を体得したから、日本文学の地平線を拡大したのである。

 第2章 最初の転換期

後世の日本文化の世界観的基礎は、その淵源を奈良朝以前にまでさかのぼることができる。しかしその世界観的枠組のなかで、分化した文化現象の多くの型や傾向、世にいわれる文化的伝統の具体的な側面の大きな部分(しかしもちろん全部ではない)は、9世紀までさかのぼることができて、
9世紀以前にさかのぼることはできない。その意味で、この国の文化の歴史は、奈良朝および以前の前史と、9世紀以後今日までの時期に、大別することさえできるのである。
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最澄自身には手のこんだ理論的著作がないが、彼の創めた天台宗は、いわば平安時代の思想的枠組を決定したといっても過言ではないだろう。……空海以後の真言宗には、天台宗のそれに匹敵するような理論家があらわれなかった。
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歴史的にみれば、仏教は渡来してから300年の後、日本人の作った観念的建築のもっとも美しいものの一つを生みだすに到った、ということができる。あるいは日本における体系的精神が、『十住心論』の包括生と内的斉合性において、はじめて自己を実現した、ということもできる。空海とその主著が画期的なのは、そのためである。

 第4章 再び転換期

 散文家としての日蓮は、一種の天才であった。その散文には、舌鋒火を吐く激しい気性がよくあらわれている。気性と信念。論戦的な日本語の散文は、早くも13世紀に、日蓮において、殊にその若干の消息文において、ほとんど最高の水準に達していた。
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正法眼蔵』の文章は、13世紀日本語散文の傑作の一つである。
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『十住心論』の空海は、体系的であり、包括的であって、抽象的な観念的秩序の建築において天才的であった。『正法眼蔵』の道元は、非体系的であり、体験的であって(一箇の体験の特殊性と非還元性)、抽象的なものから具体的なものへ、具体的なものから抽象的なものへ、いわば上下する迅速な運動において天才的であった。9世紀の空海は、外国語を駆使することで、その偉業を果したが、13世紀の道元は、外国語を通して発見した日本語の可能性を洗練することで、その新しい世界を開いたのである。
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新古今集』の美学は武士を改宗させることに成功した。すなわち西行と実朝である。

 第7章 元禄文化

 益軒は博物学的自然学を中心として、宋学を非体系化し、仁斎はその倫理学説を中心として、朱子学を非形而上学化した。あるいは宋学の抽象的概念を用いて、この二人の同時代人は、それぞれ自然学または人間学を作ろうとした、ともいえる。外来の抽象的な形而上学、客観的であろうとする包括的な知識の体系、日常生活の実用を超えようとする「イデオロギー」が、「日本化」されてゆく方向は、ここにあきらかである。まずその心理的な主観主義への還元(蕃山)があり、自然学(益軒)あるいは倫理学(仁斎)への解体がある。やがてその史学(白石)および政治哲学(徂徠)と化した姿を、われわれはみることになるだろう。
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 徂徠学の影響は、大きかった。その儒学を継承した直接の弟子には、太宰春台があり、その詩文を継承した弟子には服部南郭がある。しかし殊にその学問の方法論上の発明がなかったら、おそらく18世紀前半に富永仲基の思想史的方法も成りたたなかったかもしれないし、同じ世紀の後半には本居宣長実証主義的な文献学もありえなかったろう。
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 散文家としての(新井)白石の面目は、『藩翰譜』にみることができる。…………けだし『藩翰譜』は、元禄期前後の、またおそらくは徳川時代を通じての日本語散文文学の傑作の一つであろう。
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侍が戦っていたときに、「武士道」はなかった。侍がもはや戦う必要がなくなってはじめて「武士道」が生まれたのである。
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「真剣勝負を知っていた宮本武蔵は、戦国武士の生き残りであり、17世紀初めの「五輪書」は、いかにして相手を殺すかということについての、実際的で技術的な教科書であった。山本常朝はおそらく真剣勝負を経験したことがなく、またその必要もない時代に生きて、いかにして自分を殺すか、という書を書いた。『五輪書』から『葉隠』への100年間は、武士の心がまえが、実践から割腹へ移った過程に他ならない。」
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 日本文化の生んだ「愛の死」(Liebestod)の表現のなかに、以前も以後も、近松の「道行」を抜くものはない。19世紀のドイツ人が管弦楽で表現したものを、18世紀の日本人は三味線の伴奏する言葉で表現したというべきだろう。
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一般に日本人が自然を好んでいたから、芭蕉が自然の風物を詠ったのではなく、彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むとみずから信じるようになったのである。