モラヴィアとゴダールの「軽蔑」

 アルベルト・モラヴィアの「軽蔑」を40年ぶりに読み直した。この作品はモラヴィアのなかで最も完成度が高いとずっと思っていた。しかし今回読み直して、細密な心理描写がむしろ鬱陶しいくらいだった。小説は一人称で書かれていて、思考の描写が地を這うようにめんめんと綴られる。金井美恵子がいう省略がないのだ。私は以前どうしてこの作品に高い評価を与えたのだろう。
 40年前、私はモラヴィアを読む前にこれを原作としたゴダールの監督作品「軽蔑」を見ていた。ブリジット・バルドーが主演し、ミシェル・ピッコリジャック・パランス、ドイツの監督フリッツ・ラングが実名で出演していた。映画はほぼ原作に沿って作られながら、飛躍がありリズムがあった。第一に映画は一人称が不可能で客観描写にならざるを得ない。そして映画と写真には「コプラ(繋辞)」がない。あいまいさは避けられない。
 映画の冒頭、裸のブリジット・バルドーが夫のミシェル・ピコリに、私の足はきれい? 私のくるぶしはきれい? 私のももは? 私のお尻は? 私の肩は? 私の乳首と乳房とどっちが好き? などと聞く。これはゴダールが映画制作直前に振られたアンナ・カリーナのベッドでの台詞を再録したのではないだろうか。
 ミシェル・ピッコリは原作のシナリオ・ライターに比べ、ちょっと悪っぽいと思う。原作ではインテリで善良な優柔不断な性格なのに、ミシェル・ピッコリは最新作の「夜顔」でもいやらしい男を演じていた。ゴダールが読み替えたのだろう。それで思い出すのは清水邦夫の芝居「エレジー」で、私が見た再演は主役の老人を名古屋章が務めていた。亡くなった息子の嫁との微妙な感情のもつれを描いていて、わずかばかり嫁への情が動く。名古屋章はいかにもいい人なので、役に合わないと感じられた。初演は宇野重吉だったようで、宇野なら適役だったろう。この役はほんの少し悪そうな雰囲気が必要なのだ。
 フリッツ・ラングは有名なドイツの映画監督で、そのままの役柄で出演している。「メトロポリス」「M」「死刑執行人もまた死す」などを撮った名監督だ。「軽蔑」は縦横比が1:2のシネマスコープで、ラングに「シネマスコープは人間的じゃない、ヘビか葬列に向いている」と言わせている。
 この作品は夫婦の愛情の破綻と、映画制作の内側を重ねて描いていて興味深かった。プロデューサーのジャック・パランスはオデッセイの映画を作ろうとしている。活劇シーンや裸の女たち、スペクタクルをふんだんに盛り込んだハリウッド調の映画。フリッツ・ラングは、これを家庭劇としてとらえ直している。オデッセイは家を出るためにトロイ戦争に従軍し、冒険を続けて10年も帰らなかったのはただただ妻が恐かったためだと主張する。シナリオ・ライターのミシェル・ピッコリは、そのどちらでもなくギリシア叙事詩どおりの映画を作りたいと思っている。これにピッコリとバルドー夫婦の愛情の破綻が重なって描かれる。モラヴィアの小説ではなく、ゴダールの映画がすばらしかった。
 なお、ピッコリはシナリオ・ライターのくせにタイピングは左右の人差し指1本づつしか使っていない。ここのところは、作家のル・クレジオと私の3人にわずかに共通する部分だ。