スタニスワフ・レム「大失敗」書評

 昨年亡くなったポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの最後の長編「大失敗」が翻訳出版されたのは今年の1月末。日本経済新聞沼野充義氏の書評が載ったのが3月11日だった。朝日新聞には4月1日に山下範久氏が書評を書いた。
 まず沼野充義氏の書評。FIASKO‐大失敗 (スタニスワフ・レムコレクション)

 ……この作品のテーマは、SFファンにはおなじみのものと言えるだろう。はるかな未来、人類は地球外の知性とコンタクトする道を探り続けているのだが、どうしても成功しない。広い宇宙には人間以外の知的生命がたくさん存在しているはずなのに、宇宙は「沈黙」したままだ。そこで巨大宇宙船エウリディケ号による探検隊が組織され、ハルピュイア星群ゼータ恒星の第五惑星クウィンタを目指すことになった。この星ですでに発展し始めていると推定される文明を、「空に向かって舞い上がり窓の外に今まさに飛び出ようとして上の枠のところで羽根を震わせている蝶」のような段階で捕まえて、接触しようという目論見からだ。
 人間以外の知性とのファースト・コンタクトが結局失敗に終わらざるを得ないというのは、「ソラリス」や「天の声」などでレムがすでに取り上げてきた主題である。しかし本書のレムは、訳者解説にもあるように、それまでの一線を踏み越え、はるかに破滅的で暴力的な世界観に突き進んでいる。
 接触とは本来、相互理解を目指す行為のはずだが、本書でその試みが大失敗、大惨劇に至るまでの物語の展開は圧倒的だ。「アウシュヴィッツ以後の小説」、いや、それどころか9.11以後の時代を予見させる禍々しいビジョンに貫かれた小説と呼ばれるに相応しい作品だと思う。
 軽く読み飛ばせるような面白いプロットには頼らず、重厚な描写と緻密な理論的考察を積み重ねていくレムの文章はとっつきやすいものではないが、ここには何よりも本物の文明批評と科学的思考の手応えがある。……
沼野充義日本経済新聞:2007年3月11日)

 次に山下範久氏の書評。

 私は、SFについても東欧文学についても、熱心な読者ではない。しかしレムは読む。彼の作品がつねに、すぐれたコミュニケーションの文明論だからである。
 2度の映画化で有名な「ソラリス」をはじめ、彼の主要な作品の系列は、しばしば「ファースト・コンタクト(最初の遭遇)もの」と呼ばれる。地球文明が異星の知的生命と遭遇・接触する。そのことによってなんらかの相互作用が生ずる(少なくとも地球人側に深刻な物理的・心理的影響が出る)。それにもかかわらず、わたしたちが普通言う意味でのコミュニケーションがまったく成立しない。相手の反応が敵意なのか好意なのか、そもそもそこにコミュニケーションの意思があるのかさえわからない。しかし接触が生み出す磁場に不可逆的に引きずり込まれていく。そのような極限状況が、レムの作品を貫くモチーフである。
 本書に先立つ彼の諸作品では、コミュニケーションのさまざまな試みがことごとく不毛に終わる。こちらの発話に対して、応答なのかどうかが決定できないような現象ばかりが執拗に生起する。それが逆に他者の存在を浮かび上がらせるのだ。だが本作の仕掛けは少し違う。すなわち前作までに描かれてきたのと同工の極限状況のなかで、さらにそのような他者の存在を決して認めない論理を突き詰めたときに何が起こるかがこの作品の焦点である。
 ページを繰る手がもどかしいほどラスト100ページの展開は、ほとんど風刺に近い空気を残してあっけない幕切れを迎える。無粋を承知でそこから教訓を引き出すなら、それはコミュニケーションの不可能性を拒絶する理性が、自壊的に暴走することへの戒めである。
 レム最後の長編となった本書は、コミュニケーションの可能性をめぐる原理的探求を突き抜けて、まさにこの地球に起こってきた文明間交渉の歴史のリアリティーに近づいている。本書を前に、文明の衝突だの対話だのといった政治的題目は、どうしようもなく空疎に響く。
山下範久朝日新聞:2007年4月1日)

 本書には異星人とのファースト・コンタクトと、米ソ冷戦の極限の姿がダブらされている。傑作だと思う。