正宗白鳥の碑

 心理学者の小倉千加子に「正宗白鳥の碑」というコラムがある。以下その全文。


 軽井沢にある正宗白鳥の文学碑には、よく見なければ気がつかない特徴がある。碑の左右にほんの少しだけ突き出した部分があって、つまりは十字架の形になっていることである。白鳥は、死の床で洗礼を受けた。白鳥を知る人は、その事実に大いに驚いたという。
 冬の初めに軽井沢で白鳥の碑を見て、その晩年を振り返った時から、私にはここ数年来「脳死」や「臨死」といった死を巡る論議に対して抱いていたある違和感の謎が解けたような気がした。
 私が「死」と呼んでいるものは人間が必ず抱える体験でありながら、誰もが考えないようにしている体験、恐怖という感情と強く結びついた体験のことである。「脳死」にも「臨死」にも、人間が一人で迎える孤独で恐ろしい意識体験という側面が抜け落ちている。
 昨年、友人が乳癌の手術をした。病院で乳癌と告げられた時から死の恐怖に脅えた彼女は、入院までの二週間、友だちの家を泊まり歩いた。癌で亡くなったタレントの清水クーコさんは、「眠ってしまうと死んでしまうと思って朝までベッドに座ってずっと起きていた」という。彼女の言葉は、死を間近にしていない私たちの日々の睡眠が文字通りの惰眠であることを思い起こさせてくれる。
 死に瀕した田山花袋を見舞った島崎藤村は、花袋の枕元で平然と尋ねたという。「君、死んでいくというのはどんな気分かね」、「暗い暗い穴の中に落ちていくような気分だよ」。去年亡くなった作家の井上靖氏は、死につながる昏睡に入る十分前、娘さんをぴっしり見つめてこう言った。「大きな大きな不安だよ、君。こんな大きな不安には誰も追いつけっこない。僕だって医者だって、とても追いつくことはできないよ」。
 長い労苦の果てに、人間にはまだ死という苦悩が待っているという事実に、私はまったくどうしていいかわからない。井上靖氏も死の二日前に娘さんに問い掛けたという。「僕はどうしたらいいかわからない。本当にどうしたらいいのだろうね」。
 (朝日新聞、1992年1月4日)