半藤一利『安吾さんの太平洋戦争』を読む

 半藤一利安吾さんの太平洋戦争』(ちくま文庫)を読む。作家坂口安吾が太平洋戦争中、どんな生活を送ったかどんなことを書いていたかを昭和11年から昭和21年まで、1年ごとに詳しく紹介している。

 昭和11年は2.26事件が起こった年だ。安吾はこの事件をすぐ「革命騒ぎ」と冷静に見ている。事件のさなか安吾は恋人矢田津世子にラブレターを一心不乱に書いていた。

 翌年、書いていた小説を完成させるために京都の知人のところに身を寄せる。しかし小説は完成しない。京都で酒や囲碁に明け暮れているとき、東京の出版社竹村書房から小説の完成を強く催促される。昭和13年にその『吹雪物語』を完成させて東京へ帰る。

 『吹雪物語』は売れなかった。昭和14年、スポンサーの竹村書房の経営が怪しくなった。安吾は菊富士ホテルに逗留していたが、竹村書房の経営不振によって菊富士ホテルに住み続けるのが難しくなった。安吾は夜逃げして取手に引っ越す。

 昭和16年安吾は代々木駅近くの大井広介邸へ入りびたる。大井広介は九州の炭鉱財閥麻生一族で食料などが豊富にあった。麻生太郎は大井広介の従兄の息子に当たる。この年の12月太平洋戦争が始まる。開戦について、戦後安吾は「ぐうたら戦記」に書いている。

 尤も私は初めから日本の勝利など夢にも考えておらず、日本は負ける、否、亡びる。そして、祖国と共に余も亡びる、と諦めていたのである。だから私は全く楽天的であった。

 

 昭和17年安吾の代表作でもある「日本文化私観」が書かれた。半藤がその一番の骨子は次のとおりだと言う。

 伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。

(中略)

 京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新たに造ればいいのである。バラックで、結構だ。

 

 昭和19年、戦局の悪化に伴って雑誌統合が本格化する。総合雑誌は、『現代』『公論』『中央公論』の3誌のみとされた。サイパンテニアン、グアムのマリアナ諸島の守備隊が玉砕した。マリアナ沖海戦では航空部隊が壊滅、戦果はゼロだった。レイテ決戦の陸上戦の大失敗、それに伴って出撃した連合艦隊水上部隊は壊滅した。また特攻攻撃が始まる。

 昭和20年、兄から空襲下の東京を離れて新潟へ疎開するよう勧められたが、安吾は東京最後の日、つまり日本最後の日を見届けようと考えていた。東京と一緒に死んでも仕方がないと思っていた。

 昭和20年に天皇のラジオ放送があり、ポツダム宣言を受け入れて敗戦が決まった。戦争が終わった。

 翌昭和21年、安吾の「堕落論」が発表される。「堕落論」より、

 醜の御楯といでたつ我は、大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼らが生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。

 

 半藤一利は編集者になった最初に、原稿を受け取りに安吾宅を訪ねて何日も泊まり込み、安吾に惚れこんで弟子になったという。

 半藤の安吾に傾倒するその姿勢は気持ち良いものであったが、口述筆記かとまごうような文体がかったるかった。まあ、半藤は好きな作家だし、安吾も嫌いではないから、気持良い読書だった。