石原慎太郎『わが人生の時の時』(新潮文庫)を読む。私は慎太郎があまり好きではなく、ほとんど読んでこなかった。最近友人から、慎太郎ではこの本が好きだと言われ、それでは読んでみようと思った。なるほど、とても気に入った。
慎太郎自身や知人の経験した様々なアクシデントを書いていて、平均10ページのエピソードを40篇収録している。慎太郎はヨットとスクーバダイビングが趣味なので、それらに関する話題が多いが、どちらも日常とは違って危険が少なくない。ここに書かれているアクシデントは慎太郎がいつ事故死していても不思議はないものだった。
ゴルフ場で落雷に逢った話。突然前にいた組の真ん中に落雷して3人が死んだ。彼は以来絶対に金のスパイクのついたゴルフ靴ははかないという。ヨットレースに参加した折り、私たちの船から1挺身もへだてぬ水の上に落雷し、すがすがしいほど鮮やかな紫色の炎の大きな柱が立ち上がり、次の瞬間それはゆっくりと明るい色の水の柱に変わり、そしてまた次の瞬間、柱は水を刺すようにして没し、後の宙空になぜか薄緑の光の輪が漂っていた。
ひとだまをつかまえた話。友人が子供の頃、魚を掬うタモでひとだまを何度も採った。ひとだまは、ぬるぬるというか、変に手応えがなくて、濃い鼻汁に触ったみたいだった。採ったひとだまは放してやった。その後慎太郎の奥さんの友人が鎌倉霊園の近くを車で走っていたとき、ぼうっと光るかなりの明るさのものが飛んできてフロントガラスに当たって潰れた。ティッシュペーパーで拭いとったがぐにゃっとした嫌な感触だったと。
アメリカからハワイまでのヨットレースで臨時の慎太郎がナビゲーターを勤めて迷ったことがあった。六分儀を使って天測したがなぜか位置が出ない。どんなに試行錯誤しても全くおかしな数字しか出ない。何とかハワイには着いたが、後で分ったのはレースで使っている時間がカルフォルニア夏時間で、天測のためのグリニッチ時間とは1時間ずれているのだった。
フィリピンのベニグノ・アキノ上院議員がアメリカから帰国して暗殺された時、慎太郎の奥さんが方位と気を計算したら、暗剣殺と何と何と何が重なってこんなに悪いタイミングはないという。慎太郎はアキノに出来れば月をひと月遅らせるように忠告した。アキノはそれは一種の迷信だと言って、結局暗殺されてしまった。その後慎太郎がマリアナの孤島に映画を撮りに行ったとき、やはり奥さんが危険な方位だと言う。でも死ぬことはないというので、ひと月ずらして行ったが、やはりボートから飛び降りる際に仲間の上に落ちて、肋骨を3本骨折した。
メルヴィルの『白鯨』のような体験をした老人の話。鮫に腿を食いちぎられたその老人はその鮫に仕返しをするべく狙っていた。その鮫は4メートル近いホオジロザメだった。タコが好きなその鮫のためにタコを買い集めては餌つけしていた。老人はアメリカ兵から分けて貰ったポップガンの弾を特別の薬莢に着け、それを手銛の先に取り付け、銛が当たった時弾が発射される仕組みを作った。銛を撃ちこみ、鮫は水の底へ落ちていった。それを追ってナイフを腹に突き立てた。すると、今まで回りで成り行きを眺めていた他の鮫たちが一斉に手負いの鮫に襲いかかり、5分もたつとあの大きな鮫はほとんど頭だけになってしまった。
慎太郎は若いころかなり乱暴なドライバーだった。銀座の2丁目のバーで真夜中まで飲んで、逗子の家まで42分で帰ったことがあった。
最後に「虹」という長めの章が置かれている。弟の石原裕次郎の最後を描いたものだ。裕次郎は肝臓癌だったが、当時癌は告知しなかった。裕次郎が苦しんで闘病する姿を慎太郎は正確に記録している。
本書は石原慎太郎の代表作ではもちろんないが、気持ちよく読めるものだった。「あと書きに代えて」に慎太郎が書いている。
何年か前、あるテレビ局の依頼で、当時ドイツで盛んになっていた反核運動の取材にいき、同じ目的で来ていた大江健三郎氏と久しぶりに偶会した。
ベルリンの壁の前の吹きっ晒しの展望台でカメラの準備を待つ間、いささか意見の異なる核問題は別にして気ままな会話を楽しんだ。
その時、私が以前から手がけていたスクーバダイビングの話をし、オキノエラブウナギという名の猛毒をもった不思議な海蛇のことを口にしたら、彼がとても面白がって、そんな話は自分で思っているよりあなた自身にとって大切なのだから、暇な折りに書き残して、「新潮」の坂本編集長のような親しい編集者にあずけておいたらいいと忠告してくれた。(中略)
人生の途上のこんな年頃に、こんな書き物をしておくことが出来たのも、旧い(ふるい)友人の多分友情の故の説得のおかげと改めて感謝している。
政治的には対立している大江のことを、「旧い友人の多分友情の故」と書いていて気持ち良かった。