高田博厚『分水嶺』を読む

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高田博厚ロマン・ロラン像」

 高田博厚分水嶺』(岩波現代文庫)を読む。彫刻家高田博厚の自伝。これが大変面白かった。高田は1931年、30歳のとき妻子を日本に残したままフランスに留学する。そのまま戦争を挟んで1957年まで27年間帰国しなかった。戦争中は一時ドイツに行き、ベルリンで過ごすが、ドイツ降伏後一人フランスへ戻る。2年半の間フランスを離れていたが、それ以外終始フランスで過ごしている。1957年に住んでいたアパートを野見山暁治に売って帰国する。そのフランス在住27年間の記録だが、執筆したのは帰国後17年が経っていた1974年からだった。高田によると日記は書かなかったし、手紙などは戦争中ドイツに行っていた間にすべて破棄されていた。

 それにしても非常に詳しく書かれていて、高田の信じられないほどの記憶力に舌を巻く。フランスへ行って間もなく片山敏彦に連れられてロマン・ロランを訪ね、日本で作った高田の彫刻作品の写真を見せると、ロマン・ロランから自分の彫像を作ってほしいと言われる。ロマン・ロランは15年間彫像を作らせてほしいと言ってきた彫刻家たちの要望をすべて断ってきたのに、高田の作品の写真を見て気に入ったという。

 そのほか高田はフランスの著名な作家や美術家たちと知り合いになる。乏しい金を工面してイタリアやギリシアの絵画や彫刻を見て歩き、それらから得た感動を記している。

 最初に日本から船でフランスへ行くときに、上海で2泊した。そのとき驚くような光景を見る。

 

……街には子供市が出ており、3、4歳ぐらいまでの男の子女の子が藁かごに入れられて、列んでいた。2、30円で1人買える。

 

 日本に帰国してからの話だが、銀座の松坂屋岸田劉生の回顧展を見た。

 

……そこで「麗子像」以前の「リーチ像」や「夫人像」、それをモデルにした「裸体」など印象派風の作品を久しぶりに見て、私はある感慨に打たれた。そこへ中川一政が来た。私は彼に言った。「君、劉生がもしこの頃の作風をそのまま推し進めて行ったら、世界でもおそるべき作家になっただろうな……」中川は私の顔を見て言った。「君もそう思うか……」

 

 また、日本の古い仏像などとギリシア彫刻などを比較して、

 

……東西の古い傑作を見ると、たとえば、紀元前6世紀のギリシアの「若い女(コレ)」や「若い男(クロス)」と、唐宋代の「人形像」と、法隆寺の「百済観音」や中宮寺太秦の「弥勒座像」、またロマネスク・ゴティックの頭部像と唐招提寺の「鑑真」や東大寺の「良弁」像との間に、なんらの矛盾も感じられない。それは「形式」が同一だからか? いや、ちがう。同一の「形」に到達した「普遍性」があるからだ。ジョルジュ・ルオーは名も知らなかった雪舟の作を見て絶句した。アンドレ・マルローは隆信の「重盛像」に驚倒した。現代の我々はこの「普遍性」に至りつくために現代の「土壌」の矛盾を踏み越えなければならないのか! たぶん、こういう感得のためであろう、私はフランスに生きて、その「歴史」を勉強し、「伝統」というより、その体質である「精神伝統」に眼を向けた。

 

 戦後フランスに来た魯山人について書いている。魯山人がパリに来て高田に面会を申し込んできた。高田は彼の陶器絵付に驚いていて「たいへんな人物」だと思っていたが、パリでの彼のいやな話をきいたので会うのを断った。

 

……料理力量家の彼がパリの鴨料理屋「ラ・トゥール・ダルジャン」へ荻須高徳に案内されて行き、主人に「俺の鴨料理とどちらがうまいか競争しよう」と材料一切を選ばせた。お客だから主人は「この田舎者め!」と思ったが断れない。そこで魯山人は大勢の客がいる中で自分の腕を見せた。これだけで「馬鹿にされる」ことを気付かない彼はやはり俗な「怪物」である。その場で荻須は弱りきり、後で私に話した。

 

 高田の自伝は読んでいて楽しく、400ページ近い本書が、終りに近づくにつれ、もっともっと長ければもっといいのにと思ったほどだった。ほかにも高田の本を読んでみたい。