山鳥重『「気づく」とはどういうことか』を読んで

 山鳥重『「気づく」とはどういうことか』(ちくま新書)を読む。山鳥は失行症・失語症・失認症・健忘症などの高次脳機能障害の専門家。臨床の現場から脳の認知について独特の研究をしている。山鳥の『言葉と脳と心』(講談社現代新書)も極めて興味深く読んだのだった。

 山鳥はこころを感情、心像、意思の統合体と考える。感情には情動性の感情と感覚性の感情、そしてこれら二つの元になっている感情=コア感情がある。コア感情は意識されない。眠っていても続いているこころの活動だ。

 心像とは外の世界を知るためにこころが作り出す「かたち」のこと。心像は、感覚性の心像、超感覚性の心像、そして語心像の3つに分けられる。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、運動覚が作り出す外の世界のかたちが感覚性の心像。それに対して、茶碗なら、視覚性経験(視覚性心像)、触覚性経験(触覚性心像)、持ち上げる経験(運動覚性心像)などが同時に立ち上がる時、初めて実際の茶碗に限りなく近い心像が経験される。これを「超感覚性心像」と呼ぶ。観念という概念に当てはまるこころの働き。

 言語活動の元となり言葉経験を支える心像を語心像と呼ぶ。心理的経験の土台は感情で、感情を母胎に事物のかたちが生み出される(感覚性の心像)、さらに同じ事物についての他の感覚様式のかたちと結びつくことで抽象的なかたちが生み出される(超感覚性の心像)。そして、こうした感情や心像経験に、社会共通の音韻心像(記号)が結びつくことで、語心像が経験されるようになる。さらに語心像を組み立てる(文にする)ことによって、複雑な概念や観念がうみだされるようになる。

 そして意思とは、感情や心像などを秩序づけ、行為に向かうこころの働きという。

 「こころ」とは心理過程の総体のこと。生まれて以来の経験のすべて。意識される心理過程(感情と心像)と意識されない心理過程(コア感情とアクション)のすべて。(アクション=意識されない運動遂行過程)。

 「意識」について。わたしの「今・ここ」という限られた条件の中で立ち上がる心理過程に、自らが気づく働きがいわゆる「意識」と呼ばれる現象。山鳥は意識をこころよりは狭い心理過程と考える。

 「注意」とは、自分が選択した対象(心像や思い)をよりよく、より強く捉えようとするこころの働き。

 まとめると、こころは、本人が生きてきた経験のすべて。意識はこころの全経験のうち「今・ここ」に立ち上がる心理過程。注意は意識内容を構造化し、鮮明化しようとする意志的な働き。

 最後にヘリゲル『日本の弓術』(岩波文庫)と鈴木大拙を引いて、山鳥の主張を補完している。鈴木大拙の言う霊性とはコア感情と同じものだと。

 かなり難しい内容で十分に理解できたとは思わないが、魅力的な見解を主張している。失語症などの臨床医として活動してきたからこそユニークな視点を得たのだろう。