『定本 黒田三郎詩集』を読む

 『定本 黒田三郎詩集』(昭森社)を読む。600ページ余の厚い本に200篇ほどの詩が収録されている。黒田三郎は好きで読んできたが、こんなまとまったものを読むのは初めてだ。
 まとめて読んで、やはり良いのは『ひとりの女に』として出版された詩集だ。奥さんとの恋愛を詠んでいる。

 

そこにひとつの席が


そこにひとつの席がある
僕の左側に
「お坐り」
いつでもそう言えるように
僕の左側に
いつも空いたままで
ひとつの席がある


恋人よ
霧の夜にたった一度だけ
あなたがそこに坐ったことがある
あなたには父があり母があった
あなたにはあなたの属する教会があった
坐ったばかりのあなたを
この世の掟が何と無造作に引立てて行ったことか


あなたはこの世で心やさしい娘であり
つつましい信徒でなければならなかった
恋人よ
どんなに多くの者であなたはなければならなかったろう
そのあなたが一夜
掟の網を小鳥のようにくぐり抜けて
僕の左側に坐りに来たのだった
(後略)


 でも一番好きなのは『小さなユリと』という詩集だ。妻が入院していて詩人は小さな娘ユリと二人で暮らしている。


九月の風


ユリはかかさずピアノに行っている?
夜は八時半にちゃんとねてる?
ねる前歯はみがいてるの?
日曜の午後の病院の面会室で
僕の顔を見るなり
それが妻のあいさつだ


僕は家政婦ではありませんよ
心の中でそう言って
僕はさり気なく
黙っている
うん うんとあごで答える
さびしくなる


言葉にならないものがつかえつかえのどを下ってゆく
お次はユリの番だ
オトーチャマいつもお酒飲む?
沢山飲む? ウン 飲むけど
小さなユリがちらりと僕の顔を見る
少しよ


夕暮れの芝生の道を
小さなユリの手をひいて
ふりかえりながら
僕は帰る
妻はもう白い巨大な建物の五階の窓の小さな顔だ
九月の風が僕と小さなユリの背中にふく


悔恨のようなものが僕の心をくじく
人家にははや電灯がともり
魚を焼く匂いや揚物の匂いが路地に流れる
小さな小さなユリに
僕は大きな声で話しかける
新宿で御飯たべて帰ろうね ユリ


 このユリさん、元気ならもうすぐ69歳になるはずだ。黒田三郎は40年前に61歳で亡くなっている。鮎川信夫田村隆一らと『荒地』グループを作っていたが、黒田だけ異質な作風だった。