葛飾区の立石様に行く

 東京葛飾区に「立石様」という古跡がある。初めてそこに行ってみた。京成立石駅で下車し、本奥戸橋の畔を中川堤に沿って川上へ進む。中川はたっぷりした流れの大きな川だ。古い川筋が残っていて川は大きく蛇行している。
 しばらく川に沿って行くと左手に小さいけれど「立石の帝釈天道標」がある。そこを左折して最初の角を右折すると、左手に小さな公園がある。それが目指す「立石様」だった。
 改めて右手の参道から入る。「立石祠」という石碑が立っていて、石の鳥居がある。その先に小さな鳥居があり、石の囲いの中に小さな石がやっと地面から顔を出している。東京都教育委員会が立てたプレートによれば、これがまぎれもなく「立石様」だ。

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帝釈天道標

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 東京都教育委員会のプレートから、

立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。(……)最大長約60cm、最大幅約24cm、高さ約4cmが地上に露出していています。もともとは、古墳時代の石室を作るためにこの地に持ち込まれた石材と考えられます。
 一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い地名で、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道路は、隅田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。(中略)
 なお、大正12年には人類学者の鳥居瀧蔵がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたと結論づけています。その後も中谷治宇二郎、大場磐雄ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。

 立石は「最大長約60cm、最大幅約24cm、高さ約4cm」という驚くほど小さな石だ。縁起ものとして削られる前の江戸時代には高さ60cmあったというが、それでも大きくはない。東京都教育委員会は「平安時代の(……)古代東海道の道標として建てられたと考えられます」などと過小評価の言葉を書き連ねているが、鳥居瀧蔵や考古学者の言うように、石器時代人の信仰を表していると考えるべきだろう。
 東京には石神井の地名やこの立石、亀戸の石井神社など石に関する信仰が残っている。鏡や剣などを信仰する青銅器時代の信仰の前に、石そのものを御神体として祀る古い信仰があった。あるいは淵源は諏訪の石神に通じているとも考えられるだろう。このことについて以前私もこのブログに書いたことがあった。

 古代諏訪の信仰については中沢新一藤森照信も書いていたし、今井野菊の本を読んだこともあった。古代諏訪に石神信仰があり、それをミシャクジとかミジャクジとかシャクジイとか呼んで、東京の石神井もその勢力圏だったと聞いたことがある。江東区亀戸駅近くには石井神社というのがあるが、これもシャクジイの一種で(だから訛っておしゃもじ神社とか呼ぶ)、葛飾区にある立石の地名も石神信仰らしい。その大もとが古代諏訪のミシャクジ信仰らしい……

 亀戸石井神社についてはこちらに書いた。
https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20130412/1365722612

 今回訪ねなかったが、葛飾区立石には石棒を御神体としている熊野神社がある。今度はそこを訪ねてみよう。