東大出版会の雑誌『UP』について

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 私は新刊情報を知るために、土曜日の朝日新聞の書評欄、日曜日の毎日新聞と読売新聞の書評欄を毎週、もう40年近く愛読している。それよりもっと古くから定期購読している雑誌が各出版社が発行しているPR誌で、現在『図書』(岩波書店)、『波』(新潮社)、『ちくま』(筑摩書房)、『UP』(東京大学出版会)を定期購読している。そのほか、以前は『本』(講談社)や『一冊の本』(朝日新聞出版)、『未来』(未来社)、『ぶっくれっと』(三省堂出版)なども定期購読していたが、現在はやめてしまった。理由は、『本』の表紙の現代美術を選定していた高階秀爾の連載が終わってしまったし、『一冊の本』の金井美恵子のエッセイの連載が終わってしまったから。『未来』は私が会社を首になって無収入になったとき購読料を惜しんで、『ぶっくれっと』は休刊になったから。
 現在も購読している『図書』『波』『ちくま』『UP』について寸評を試みる。もともと新刊情報を得るためだから各月に載っているエッセイの価値は二の次だったが、それでも楽しみにしている連載はある。『波』は徹底して新刊の宣伝のためのエッセイを掲載するというスタンスなので、本文はつまらないことが多い。『ちくま』も『図書』も宣伝のためのエッセイ(言ってしまえばヨイショ記事)もあるが、読み応えのあるエッセイも多い。だが一番好きなのは『UP』で、こんなエッセイ載せて新刊の購買にどれだけ結びつくのかという内容のものが多い。まあ、巻末の新刊情報を知るのが主目的だからいいのだけれど。
 ちなみに『UP』6月号を見ると、山口晃の連載漫画「すゞしろ日記」の第171回、須藤靖という宇宙論学者の「注文(ちゅうぶん)の多い雑文」の46回目、過激な日本美術史学者佐藤康宏の「日本美術史不案内」の121回目が掲載されている。

f:id:mmpolo:20190629222852j:plain 今回の須藤は「火星と宇宙植物学」と題して、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』というSFを交えて面白く語っているし、佐藤は美術史の面白さを美学に比べて独断的に語っている。「書評」という項目では佐藤俊樹が、いま評判の大澤真幸社会学史』(講談社現代新書)について、その初歩的過ちを厳しく追及している。ただこの項次号につづくとなっていて、その展開が楽しみだ。さらに田中純ゲルハルト・リヒターについて書いている。
 この『UP』では昔衝撃的なエッセイを読んだ。1990年6月号に載った長谷川真理子「セントキルダ島と羊たち」だ。

 イギリスを旅する人たちの数は数え切れないほどあるが、スコットランドへ行く人の数は、まだずっと少ない。さらにスコットランド本土を離れて、西岸を取り巻くアウター・ヘブリディーズ諸島を訪れる人は滅多にいないだろう。その中でさらにぽつんと西に離れて位置するのがセントキルダ(島)である。私自身、そこに生息する野生ヒツジの調査に参加することになると聞いたとき、そこがどこにあるのか知らなかった。(中略)研究対象であるヒツジたちは人を恐れる様子もなく、私たちを横目に草を食んでいた。この年は島全体で約900頭のヒツジがいた。島は閉鎖系であるため、ヒツジの数がどんどん増えると環境収容力が一杯になり、やがて一気に大半のヒツジが死んでしまう。ここのヒツジは、このような増加と減少のサイクルを長年(約5年周期で)、繰り返しているのである。島を歩くと足元に、草の間にも海岸の割れ目にも、気が付けばほとんど島中が隙間もないほどに、かつて死んでいったヒツジたちの白骨で覆われていることがわかる。今いるヒツジたちは、吹き荒れる風に頭を低くし、死んでいった同胞たちの骨を踏みつつ、骨と骨の間で草を食んで生を営んでいた。(中略)この年、島の環境収容力は飽和に達し、10月頃からヒツジが死に始め、私がこの手に抱いて体重を計った子ヒツジたちは、2頭を除いて全員が死んでしまった。彼らもまた、草の間に横たわる白い骨の仲間入りをしたのだろう。(後略)

 この1篇だけでも『UP』を購読してきた甲斐があった。