中沢新一対談集『惑星の風景』を読む

 中沢新一対談集『惑星の風景』(青土社)を読む。1999年から最近までの対談で、今日の時点から見ても内容が古びていないものを選んで編んだという。中沢初めての対談集だ。
 対談相手は、レヴィ=ストロースミシェル・セール、ブルーノ・ラトゥール、吉本隆明(2回)、河合隼雄、河合俊雄、養老猛司、中村桂子管啓次郎細野晴臣杉浦日向子藤森照信の12人。吉本隆明との対談がもっともおもしろく充実していた。とは言うものの、私にはそれを要約する力がない。
 セールとの対談でも管との対談でも二人が個別に人口問題に言及していた。まず、ミシェル・セールの発言。

セール  もちろん商業や科学技術と自然との対立は考えられますし、それによって自然が破壊されているということもありますが、もうひとつ、いままで話に出てきていないことで考えなくてはならない変数があります。それは「人口問題」です。人口の増加は、もしかすると自然破壊の一番の要因であるかもしれません。

 管啓次郎の発言。

管  ちょっと話が飛びますが、ポピュレーション(個体数、人口)の問題こそ、結局のところエコロジーの究極の問題だと思います。それはみんな語ることを恐れている。一体どれだけの人口を地球が維持しながら、ヒトという種にどれくらいの物資・エネルギー消費のレヴェルでの生存を許すのかということです。他の動植物種への負荷を、ヒトがどこで自己規制に転じるかということでもある。この自己規制、人類の自己収縮がないかぎり、ヒトを含めた現行の生物種の多くの滅亡はすぐそこまで迫っている。まあ、生命そのものはわれわれの想像を超えた形で続いてゆくと思いますが。ある土地に対する適正な人口はどう考えるべきかわかりませんけれども、日本列島なら縄文中期で20数万、北アメリカ大陸ならコロンブス到着時で200万とも700万とも言われる。そこから現在にいたる道を想像する必要はあるでしょうね。

 以前、若狭毅も日本に何人住めるのかと書いていた(毎日新聞2008年7月6日)。

 歴史をひもとけば、日本の人口容量には4つの壁があった。1. 旧石器時代の3万人、2. 新石器時代は26万人、3. 大陸から粗放農業文明が流入し700万人(10世紀ごろ)、4. 水田稲作文明を高度化させた集約農業文明により3250万人(1730年ごろ)ーーをそれぞれ上限とした。そして今は、科学技術を基礎にした加工貿易文明によって増えた人口容量が限界に達している。

 長谷川真理子も「セントキルダ島と羊たち」で人口過剰の未来を示唆していた(『UP』1990年6月号)。

 イギリスを旅する人たちの数は数え切れないほどあるが、スコットランドへ行く人の数は、まだずっと少ない。さらにスコットランド本土を離れて、西岸を取り巻くアウター・ヘブリディーズ諸島を訪れる人は滅多にいないだろう。その中でさらにぽつんと西に離れて位置するのがセントキルダ(島)である。私自身、そこに生息する野生ヒツジの調査に参加することになると聞いたとき、そこがどこにあるのか知らなかった。(中略)研究対象であるヒツジたちは人を恐れる様子もなく、私たちを横目に草を食んでいた。この年は島全体で約900頭のヒツジがいた。島は閉鎖系であるため、ヒツジの数がどんどん増えると環境収容力が一杯になり、やがて一気に大半のヒツジが死んでしまう。ここのヒツジは、このような増加と減少のサイクルを長年(約5年周期で)、繰り返しているのである。島を歩くと足元に、草の間にも海岸の割れ目にも、気が付けばほとんど島中が隙間もないほどに、かつて死んでいったヒツジたちの白骨で覆われていることがわかる。今いるヒツジたちは、吹き荒れる風に頭を低くし、死んでいった同胞たちの骨を踏みつつ、骨と骨の間で草を食んで生を営んでいた。(中略)この年、島の環境収容力は飽和に達し、10月頃からヒツジが死に始め、私がこの手に抱いて体重を計った子ヒツジたちは、2頭を除いて全員が死んでしまった。彼らもまた、草の間に横たわる白い骨の仲間入りをしたのだろう。(後略)

 中村桂子との対談で、中沢新一の口から唐突に祝島の名前が出て来て驚いた。

中沢  祝島でも、豚を飼うということの意味を、全体サイクルで見せる取り組みをやっています。こうした取り組みが活気を呈しています。

 この「祝島」について、注で次のように解説されている。

祝島(いわいしま) 周防灘と伊予灘の境界に位置する山口県熊毛郡上関町の島。瀬戸内海の交通の要で、「伊波比島」として『万葉集』にも詠まれる。豊かな漁場と傾斜地を拓いた段々畑や棚田で半農半漁を営む。住民による上関原発反対運動は30年以上続いている。

 また管との対談でも中沢は祝島を話題にしている。

中沢  一方で僕はエコロジー研究を山口県祝島で始めています。どうしてあの島が反原発の運動を20数年間も単独で続けられたのかという秘密を解き明かすと、大体現在のエコロジー問題の抱えている問題の解答になると思うのです。山と海の問題、共同体の作り方の問題、そういう問題を全部含めて、そこに一つの回答があるような予感がしているのです。

 先週、銀座のフォルム画廊で松田正平素描展を見たら、祝島の風景が描かれていた。画廊の方から、先生は祝島が好きで40年以上通われたそうです、と聞いた。特産の祝島のビワの素描も展示されていた。その前日、祝島出身の知人から祝島のビワをいただいたばかりだった。それで、この対談集に祝島が取り上げられていて驚いたのだった。