瀬戸賢一『時間の言語学』を読む

 瀬戸賢一『時間の言語学』(ちくま新書)を読む。「はじめに」より、

 本書は小著だが、一般に世にある時間論とは一線を画する。私たちが頭の中で時間をどのように考えるのかを、数多くの実際のことばの分析によって明らかにし、無意識的に使われるメタファーの仕組を解明することによって、ことばと認識の関係を白日の下にさらす。さらに、少しでも住みやすい社会にするにはどうすればよいのかを、言語学の観点から示唆できればと思う。いかなる予備知識をも前提としない。

 タイトルから想像される内容と違って意外に読みやすくおもしろかった。と同時になかなか難しい一面もあった。まず、時間は流れとしてとらえられる。
 時間は未来から過去に向かって流れ、私たちは過去から未来へ進む。時間の流れを観察すると、時間は未来からやってきて過去に過ぎ去る。例えばもうすぐ夏休みがやって来るという。この〈動く時間〉が図示されていて、人を中央に未来が〈後〉、過去が〈前〉と表示されている。
 次に時間が動かず人が動くことを図示して、人が未来に向けて歩いている。未来は人の前方〈前〉にあり、過去は背後〈後〉にある。実はこのあたりがよく分からなかった。
 ついで「時間」と「とき」について。ときは和語で時間はときの漢語。時間は明治以降に翻訳語として成立した。「若いとき」とは言うが「若い時間」とは言わない。時間は明治の初期に導入されて以来、計量思考がまとわりついている。「時間がある/ないとは言うが、ときがある/ないとは言わない」。「時間の経つのが遅い」と「ときの経つのが遅い」を比べる。Googleで検索すると、前者が6893件、後者が70件だった。ほぼ100倍の差。その理由は、何かをじりじりした思いで待つときは何度も時計に目をやる。時間の経過が遅いと感じるとき、時計による軽計量思考の支配下にある。
 ここで「ときは金なり Time is money.」の諺が引かれる。ときという抽象的なものを金という具体的なもので要約する。メタファー(暗喩)だ。メタファーは無形のものに形を与える。ほかにメトニミー(換喩)、これは隣接関係に基づく指示の横滑りを意味する。

流れる時間の例では、もうすぐ夏休みがやって来る。夏休みは時間の流れに乗って進む出来事(あるいは特定の期間)と見なせた。時間が流れなら夏休みはさしずめ川を下るボート、という関係である。出来事でもってそれと隣接関係にある時間の到来を表す。

 さらに、

メタファーは特殊なものではなく、日常のことばに遍在することが共有知識となった。その後、多義語の意義関係を記述するには、メタファー以外にもメトニミー(換喩)とシネクドキ(提喩)が欠かせないことが明らかとなった。

 英語の動詞runを取り上げて、「走る」が最も基本的な意義で、これを中心義と呼ぶ。「走らせる」は中心義からの直接的な派生であり、走るの自動詞に対して他動詞である。自他交替に見られる因果関係は隣接関係の一例で、隣接関係に基づく意味の展開はメトニミーである。「(会社を)走らせる」は「走らせる」からの意義展開で、runには「(会社を)経営する」という意味がある。これは他動詞「走らせる」のメタファーである。さて、4番目は「速く走る」。これは「イチローは走れる」というときの走るである。「速く走る」という意味である。意味の凝縮だという。「熱がある」というときの熱が平熱より高い熱を、「きょうは天気だ」の天気が晴れを、「花見に行く」の花が桜花を意味するのと同じ。類で種を表す、または種で類を表す意義展開をシネクドキ(換喩)という。

 runの多義ネットワークには、メタファー、メトニミー、シネクドキの3種が登場した。そしてこれで終わりである。細部は省くがこの3種の意義展開パタンによって、すべての多義語が記述できる。英語のみならず日本語もそしておそらく世界中のどの言語も。

 このあと時間の多義ネットワークが示される。しかし、もうこの辺で紹介はやめる。難しいが面白いことも確かだ。瀬戸賢一の『メタファー思考』(講談社現代新書)や『日本語のレトリック』(岩波ジュニア新書)なども読んでみたい。