いしいひさいち『現代思想の遭難者たち』がおもしろい

 いしいひさいち現代思想の遭難者たち』(講談社学術文庫)を読む。これがとてもおもしろい。1990年代後半に講談社から『現代思想冒険者たち』全31巻が刊行された。ハイデガーから始まり、フッサールウィトゲンシュタインカフカニーチェマルクスフロイトユングなど、またバルト、フーコーアドルノ、クリスティヴァなど当時の最先端の哲学者、思想家を集大成した意欲的な現代思想叢書だった。その月報に連載されたマンガと解説をまとめて2002年に単行本にしたもの。2006年に増補版が出て、今回その増補版を文庫化している。
 きわめて難解な哲学をいしいひさいちが面白おかしくマンガにしている。編集部が適切なコメントを付けているが、それも含めてとてもよく出来ている。たぶん100メートル離れたところから見たその哲学者の面影といった程度以上に理解できるのじゃないだろうか。当時この単行本を購入して読み、31巻のうち何冊かは買ったと思うが、書棚には1冊も見当たらないのですでに手放したのだろう。何を買って何を読んだのかもう記憶にない。
 ウィトゲンシュタインの項で、

 芭蕉に扮したウィトゲンシュタインが、「限界は私の言語の言語界」「語りえぬ形而上学もの自体」などと詠んでいる。そのウィトゲンシュタインについての4コママンガ。「この部屋に河馬はいない」

(その注)
ウィトゲンシュタインが学生時代、師ラッセルとの間で交わした議論。この命題を真とする「いない」という事実は存在しない。部屋にあるものに河馬が含まれていないことを示そうとしても、それはあるものがあることを語るのみである。
ラッセルはウィトゲンシュタインと会って約半年後、「ウィトゲンシュタインが自分よりもうまく仕事をこなすだろうから、生きる意欲が薄れてきた」と恋人宛の手紙で語っている。
論理的推論は前提の言い直し、つまり同語反復(トートロジー)に過ぎない。真偽両方の可能性があり、かつ何かを偽として排除するとき、命題は、世界の「事実」について何事かを語る。
 フランスの哲学者フーコーの項。4コママンガ「スキンヘッドの理由」

(その注)
病院、学校、工場では、まなざしが、細部を管理し拘束する。それに服従し、まなざしを内面化することで、自己管理する主体が成立する。
フーコーは同性愛者で、エイズで死んだともされている。ただし、彼自身は公的沈黙を守った。


 よくできていてお薦めだが、「文庫版のおまけ」にいしいひさいちが(マンガの中に)書いている。
「単行本からそのまま文庫にしたためにものすごく字が小さくなって内容の難解とか文体の晦渋ではなく、」
「字が読めなくてわからんと評判になって売れています。」
とあるが、まさに字が小さくて読みづらかったのが最大の難点だ。