『軍旗はためく下に』を読む

 先日読んだ校條剛『作家という病』で池澤夏樹結城昌治に対する追悼文を知った。池澤は結城について、「一言でいえば、倫理の人である。いかなる権威も後に背負わない徒手空拳の倫理。ほとんど本能的に力なき者の側に立つ」と書いていた。それで結城昌治『軍旗はためく下に』(中公文庫)を読んだ。
 圧倒された。本書は5篇の短篇で構成されている。いずれも冒頭に陸軍刑法の条文が引かれ、それに違反して処罰された兵隊の事件を書いている。第2次大戦の末期、日本軍の敗色が濃くなってきて、前線では弾薬も食料も欠き、悲惨な状況になっている。冷酷な上官から拷問のような扱いを受け、それに対して行った行動が陸軍刑法で死刑とされたりする。戦争末期には簡単な裁判で死刑が宣告され当日中に銃殺になる。

(……)それまで中隊を放ったらかしにしていた連隊副官の藤牧大尉が、部下を3人つれてふいに現れたんです。そしていきなり、守備地点を勝手に放棄したというので怒鳴りだした。有無を言わせません。中隊長が弁解しようとしたら、「口応えするのか」と言って、わたしたちが見ている前で、軍刀で滅多打ちです。こめかみに青筋立てて、まるで気ちがいだった。「きさまはそれでも帝国陸軍の軍人か、恥を知れ、恥を。敵に遭ったらなぜ死ぬまで戦わんのだ。上官の命令を何と心得ている。ここで腹を切るか、さもなければ軍法会議にかけてやる。きさまのような将校は連隊の名折れだ」罵詈雑言を浴びせながら、殴り放題です。
 中隊長は黙って殴られていました。奥歯を食いしばるようにして、じっと殴られていました。

 殴っている藤牧大尉は召集前は呉服屋のおやじだったという40過ぎの男だ。階級が一つ上というだけで殴っている。その藤牧は復員後、アメリカ軍の出入り商人になって大分儲け、呉服屋から衣料品の卸問屋の社長になった。
 作家の結城は昭和2年生まれ、戦場経験はなかったが、戦争末期に海軍を志願して短期間軍隊生活を送っている。そして何よりも昭和27年の講和恩赦の際、恩赦事務にたずさわる機会があり、膨大な件数にのぼる軍法会議の記録を読んだことからこれらの作品が生まれたのだった。
 なぜ平凡なおやじたちがあれほど冷酷・残虐になったんだろう。負け戦の混乱がそうさせたのか、われわれの中にもこれらの残虐性が隠れているのか。まさか日本人特有のことなどではないだろう。自分も戦場ではあんな冷酷な顔をするのだろうか。
 50年ほど前に読んだサルトルの短篇小説を思い出す。フランスを占領したナチスに対してレジスタンスを行っていた者たちが捕まり、仲間のいる場所を白状しろと拷問を受ける。仲間の悲鳴を聞きながら、次に自分が拷問を受けるのを待っている。彼は考える。平和な時代に生まれた人間は幸せだ。自分が卑怯者かどうか知らないでいられると。
 こんなに良い本を今まで読まなかったことを反省した。すばらしい作品だ。成人の必読書と言っていいだろう。


軍旗はためく下に (中央文庫BIBLIO)

軍旗はためく下に (中央文庫BIBLIO)