『西田哲学を開く』を読む

 小林敏明『西田哲学を開く』(岩波現代文庫)を読む。副題が「〈永遠の今〉をめぐって」とある。小林は廣松渉の弟子筋にあたる哲学者で、『廣松渉――近代の超克』(講談社)という著書がある。私も今まで、『廣松渉――近代の超克』のほかに『〈主体〉のゆくえ』(講談社選書メチエ)と『父と子の思想』(ちくま新書)などを読んできた。難解で有名な廣松の弟子でありながら、哲学を分かりやすく語ってくれる著者というのが小林に対する認識だった。
 さて、本書『西田哲学を開く』も期待して読み始めたが、難しい本だった。あの小林にしてこんなに難解なのは、つまり西田幾多郎の難しさということなのだろう。
 本書は5つの論文からなっていて、その題名を挙げれば、「第1章 今――永遠の今と他者」「第2章 言葉――言葉が消えゆき、生まれ出るところ」「第3章 場所――逸脱するコーラと無化する場所」「第4章 瞬間――断絶する今」「第5章 偶然――偶然性の時間論」 「第6章  現在――カイロスの系譜」となっている。別々に発表された論文だが、1冊の著作にすることを構想して書かれたものだという。
 西田の最初の著作『善の研究』の主要なテーマ「純粋経験」に関しては、第2章でだいぶ理解を進めることができたように思う。第3章の「場所」の概念は相変わらず難しい。第4章からは西田の「永遠の今」について、西田の著述をたどって追及していく。「今」を木村敏フッサールハイデガーレヴィナスアガンベン等、また精神病理の患者の時間意識を参照して分析していく。私にとってきわめて難解で全体のやっと何分の1くらいしか理解できなかった。ときおり雲の切れ間のように納得できるところが現れて、また茫洋とした霧が論理を覆ってしまうのだった。
 第2章の「言葉」のところで、西田が打ち込んだ禅の「公案」について小林が解説する。公案が初めて身近に感じられた。

『趙州録』に記録されている公案である。あるとき一人の僧が趙州に向かって「如何なるか是、祖師西来の意」と問う。趙州答えて曰く、「庭前の柏樹子」と。僧の質問は、いったいなぜ祖師すなわち達磨大師は西のインドからこちらにやって来られたのでしょう、その意味は、という質問である。この問い自体すでに含みをもっているが、何より問題なのはこれに対する趙州の答「庭前の柏樹子」である。(中略)われわれはまずこの答えに面食らわされる。論理的にはまったく意味をなさないからである。(中略)
 「庭前の柏樹子」はたしかにひとつのシニフィアンである。だが、それはシニフィエをもたない。もってはならないのだ。(中略)すべてを徹底的に空じようとする仏教では当然言葉もまたその対象となる。出来あがった「意味」を介した理解は「自得」にはならない。シニフィエをもたないシニフィアン、それはディスコースならぬディスコースである。ディスコースであることを自らつっぱねるようなディスコースといってもよい。にもかかわらず問う者と答える者との間に何かが通じた、あるいは生じた。何が生じたのかということに関しては、むろんこの世界に通じない私には文字通りいうべき言葉がないが、ただひとつだけ指摘しておきたいことがある。それはこの意味不明の返答は確実に問い手の不意をつき、一瞬その人物を宙吊りの状態に追いやったはずだということである。文字通り「虚を突かれた」という事態である。つまり前章で述べたような、他性としての未知が不意打ちのようにして襲う今の瞬間というファクターがここで剥き出しにされたのだ。

 それでも、難解な西田哲学のほんの一部でも理解できる部分があることが分かって、それなりに有益な読書だった。負け惜しみではなくそう思う。また少しずつ西田の著作を読んでみよう。


小林敏明『〈主体〉のゆくえ』を読む(2012年4月21日)