小林昌人・編『廣松渉 哲学小品集』を読む

 小林昌人・編『廣松渉 哲学小品集』(岩波同時代ライブラリー)を読む。廣松は難解な哲学者だが、これは雑誌などに掲載した小論を集めたもの。題名が硬いが、エッセイ集とした方が内容を表しているだろう。
 「一度かいてみたい序文」という項で、ショーペンハウエルの『意思と表象としての世界』初版の序文を紹介している。ショーペンハウエルは序文の最初で読者に3つのことを要求しているという。

 第1の要求は、この本は必ず2度よめということで「特に第1回目には十分の忍耐をもってよめ」「開巻はすでに結末にもとづいていることを知れ」というわけです。第2には、本書に先立って「緒論」をよめとのことですが、緒論はこの本にはありません。それは5年前に出した或る論文でして、彼によれば、この旧い論文には誤りが含まれていることが今日では判っているとのことです。しかし、「すでに一度のべたことがらについては、またぞろ骨折って書くのはいやでたまらぬから」書き改めて緒論の形で収めることはしない。読者はよろしく本書と旧稿とを比較して、”緒論”の誤りを是正しながら読まれたい云々。第3の要求は、本書を読む前に、カントの主要著作を全部よくこなしておけということで、そのうえプラトンや古代インドのヴェーダウパニシャッドを読んでおけば理解をたすけるだろう、と彼は記します。
 「多数の読者は――とショーペンハウエルがみずからいうには――ここまできてついに辛抱しきれず非難を爆発させることだろう。独創的な思想が排出しているこんにち、こうもさまざまな要求をつけてこの本を出そうという了見を聞きたい。そういう面倒をはらって1冊の本を勉強していては間尺にあわない……。余はそういう非難にたいして少しも弁ずる要はない」「この書物を棄てるようお勧め申しあげるのみである」但し「そういう読者諸氏は、こういうさまざまな要求をみたさずして通読しても無益だから棄ておいたほうがましだということをあらかじめ警告して、時間の損にならないよう御注意申しあげたことを感謝してほしいものだ」「本書はもともと少数の人のもので、彼らの思考力がすぐれていれば味読してくれる筈であるから、それまで腰をすえてそういう人を待望するのみである」

 このおもしろい序文はまだまだ続き、買ってよまなくても書棚の埋め草にすればよい、教養ある女友達の化粧台か茶卓のうえにおいておくのも一策で、モテモテですぞ、と。
 「現代性を秘めるヘーゲル哲学の魅力」の項から数行を引く。

 翻訳といえば、ヘーゲルのテクストだけではなく、研究書類の邦訳も次々おこなわれており、例えば、ウェルナー・マルクスの『ヘーゲル精神現象学』が上妻精氏の訳でつい先ごろ、理想社から出たばかりである。また、ペルチンスキー編『ヘーゲルの政治哲学』が藤原保信ほか訳でお茶の水書房から公刊された。

 ここに挙げられている上妻精氏はヘーゲルが専門の東北大学の哲学の教授で、しばしばギャラリーなつかなどで個展を開いている画家こづま美千子さんのお父さんなのだ。
 廣松が東大教養学部助教授に赴任したときの「教養学部報」に掲載した「私の履歴書」は難解な廣松のユーモラスな面を見せてくれる。

 中学校(旧制)1年生のときの停学処分? ああ、あれはガキのケンカですよ。教室でしたから、匕首(あいくち)は抜かなかったんス。九州男児の風下にも置けませんや。刃物? ええ、それァ丸腰で出歩くようなはしたない真似は決してしませんでしたよ。硬派とはいっても、僕百姓の孫ですから、大の方が刃渡9寸の白鞘、小の方は、厭だなあ御女中の懐剣でしたね。どのみちその後まもなく青共(民青の前身の前身)に入っておとなしくなりましたけど。

 また「哲学書を読みあさった日々」では、「読書量は、しかし、文学部生の標準ぐらいには達していたかと思う。1日平均700頁、つまり、毎月2万頁はほぼ読破していたつもりである」と書いている。さすが!


廣松渉 哲学小品集 (同時代ライブラリー (276))

廣松渉 哲学小品集 (同時代ライブラリー (276))