『手紙読本』を読む

 江國滋・選『手紙読本』(講談社文芸文庫)を読む。江國が文士の手紙90余通を選んで、内容ごとにコメントを加えている。54歳の斎藤茂吉が人妻の愛人永井ふさ子(26歳くらい)へ送った手紙。

 どうしていつもこんなになつかしくこいしいんでしょう。選歌をしていてもまるで手がつかずとうとう大戦映画にかこつけて御あいしたのです。しかし天にも地にもただ一人のこいしい人と身を並べて生命を賭する戦闘を見ているのはこれも神明の加護というものでしょう。(中略)御手紙は便所でも、机の原稿紙の下でも床の下でもよむのです。ああこいしい。

 本書には紹介されてないが、茂吉の手紙には「あなたの身体はどうしてこんなにいいのでしょう」というのもあった。
 横光利一(38歳)から妻横光千代子への手紙。

パリへ着いてから1週間にもなる。(中略)この手紙は宿の近くのドーメという宮田君などの巣だったカヘェーで書いているのだが、すぐテーブルの向うの方に、藤田ツグジを有名にした例の妻君が、しきりに誰かと饒舌っている。鬼婆みたいな恐ろしい顔だ。(中略)着いた1日目は、婦人が誰れも綺麗に見えたが、2日目から、よく見ると、美人というものはそんなにいない。ことに男でほれぼれするようなのは、まだ一人もいない。僕なんか、やっぱり、これで良い男だと思ったね。

 この鬼婆みたいな恐ろしい顔の例の妻君とは誰だろう。フェルナンド・バレーだろうか、ユキと呼ばれたリュシー・バドーだろうか、それとも君代夫人か。
 次も横光利一から千代子への手紙。

アメリカ航路の船員で、主人が1ヶ月目に帰るのだが、上陸はたった1日、次の日はまたアメリカへ、というのが常だそうだが、丁度そのとき夫人が病気の事があると、30日目にまた帰ったときも病気にあたるので、両方とも気が変になるそうだ。

 病気の事って生理のことなんだ。うーん、つらいかもしれない(もう引退しているので他人事)。
 森鴎外から妻森しげ子への手紙。

只今手紙が来たが日附けがない。消印もぼんやりして居るが2日のだろうとおもう。手紙には日づけをするものだよ。

 私も10代のとき読んだ鴎外のこの手紙によって、日付を欠かすものではないと知った。以来それを守っている。
 斎藤美奈子が「文芸文庫版解説」で、鴎外のこの手紙に触れて、

最初の妻の病死後、しげ子と再婚したとき、鴎外は39歳、しげ子は21歳だった。その年齢差が特異な文体になった、ともいえる半面、この子ども扱いは普通の女性ならムカッとするところである。さすが『舞姫』の作者である。

 さすが斎藤美奈子のツッコミである。
 最後に斎藤は、江國が「手紙史の中でも最高の手紙」と称賛する小泉信三が出征する息子小泉信吉に宛てて書いた手紙を、野口英世の母シカが英世に宛てて書いた手紙と比較する。

〈おまイの。しせにわ。みなたまけました(おまえの出世にはみなたまげました)。わたくしもよろこんでをりまする〉ではじまるシカの手紙には〈さしんおみるト。いただいておりまする(写真を見ると拝んでいます)。はやくきてくたされ。いつくるトおせてくたされ(いつ帰るか教えてください)〉という懇願が書き連ねてある。
 きちんとした学校教育を受けなかった野口シカの手紙と、教育界の頂点に近い地位にあった小泉信三の手紙の間に、優劣はつけられまい。

 私は斎藤美奈子のファンなのだ。