梅野記念絵画館で堀内康司展を見て考えたこと

 長野県東御市の梅野記念絵画館で堀内康司展が開かれている(2015年1月18日まで)。堀内は美術館のパンフレットによれば、

1932年(昭和7)東京生まれ。幼い頃に父がサイパン島で戦死、母も病死して孤児となる。両親の故郷・信州を愛し、絵を描きはじめる。松本で宮坂勝の絵画サロンに参加し、草間弥生らとグループ展に出品、初の個展も開く。1952年53年と国画会新人賞を連続受賞。上京後、フォルム画廊の福島繁太郎の支援を受け、證券会社株価を黒板に書く仕事をしながら創作活動を続ける。偶然、古書店にかかっていた池田満寿夫の絵を見出し、グループ「実在者」を、池田、真鍋博、靉嘔と結成。仕事を辞め、堅い決意のもとに創作に専念。しかし2度のグループ展ののち解散し、堀内は個展を数回開催するものの、誰にも理由を告げずに絵筆を折る。その後は岩波書店の「世界」をはじめ雑誌のカットの制作、競馬記者として記事執筆、写真や挿絵の仕事をしながら、美術愛好家として浜田知明、藤牧義夫などの作品をもとめて多数所蔵。晩年は若い画家たちの作品を購入するなど、創作活動を支える。2011年逝去。

 この文章は画集『堀内康司の遺したもの』(求龍堂)表紙カバーよりとある。




 堀内康司展を記念して、芝野敬通の講演があった。芝野は晩年の堀内と親しく付き合い、画集『堀内康司の遺したもの』の責任編集を行っている。芝野によれば、堀内はほぼ26歳ころに筆を折ったという。国画会新人賞を連続受賞し、福島繁太郎の支援まで受け、若い内から高い評価を得ていた堀内がなぜ筆を折ったのだろう。作品に対する批判、とくに当時一世を風靡していたビュッフェとの類似を指摘されたことによる嫌気などかとも言われたようだ。芝野はこれに対して、堀内の作品は一見似ているように見えながらビュッフェとは異なっていると主張した。
 なぜ筆を折ったのか、私もこのことが気になっていた。会場でまとめて見ることができた堀内の作品は、作品の大きさやマチエールなど、画集では分からない魅力に満ちていた。なぜこんない良い作品を描いていた画家が筆を折らねばならなかったのか。未亡人を含め誰の口からも、説得力のある理由は聞かれなかった。あらためて私もそのことを考えてみた。
 まずビュッフェに似ていると指摘されたことは絵筆を折ったことの理由にはならないと思う。当時の若い画家たちにおけるビュッフェの影響はきわめて大きいものがあった。笠井誠一などはいまだにその強い影響のもとにあるし、堀内より2歳上のわが師山本弘も、その頃ビュッフェから強く影響を受けた作品を作っていた。ビュッフェに似ていると指摘されても、それは大きな瑕疵ではありえなかったはずだ。
 おそらく本人以外誰にもその決定的な理由が分からないというとき、私はグレアム・グリーンの小説『情事の終わり』とタルコフスキーの映画『サクリファイス』を思い出す。『情事の終わり』では、作家モーリス・ベンドリックスは人妻サラと愛し合っていたが、ある時突然サラから別れを告げられる。ベンドリックスにはその理由が全く分からない。タルコフスキーの『サクリファイス』では突然核戦争が勃発する。主人公はそれを回避するよう神に祈る。自分の愛するものを犠牲にすることを約束して。同じようにサラは愛するベンドリックスの命を救うよう神に祈る。愛する者を諦めることを約束して。二人とも誰にも告げずに、大きなものを失うことと引き換えにかけがえのない極めて大切なものを守ることを選ぶ。
 そんな風に考えることは荒唐無稽だろうか。堀内が放棄した美術での成功は、何か大きなもののための犠牲の羊、生贄ではなかったかと考えた方が納得がゆくように思う。それが何かは全くわからないけれど。絵を捨てたあと選んだ競馬記者とか、高校野球が好きでその勝敗も賭けの対象にしたというエピソードを聞いていると、堀内の賭けに対する嗜好も伺える。たとえば家族とか、誰にも言うことができない大切なものを守るために、あえて美術を犠牲にすることに賭けたのではないかと考えることは、十分可能性があると思うのだ。堀内の夫人について、木下晋は画家の3人の賢夫人の一人と評した。他は山下菊二夫人と靉光夫人ということだ。堀内は夫人に対して我が儘いっぱいに対していたらしい。それは本当にもしかしたらということになるが、自分の絵の未来を犠牲にして夫人を守ったことの代償ではなかったかと想像を逞しくもしたくなってしまうのだ。
 NHK日曜美術館のアートシーンで次のように本展が紹介された(11月16日)。

 戦後の日本を描いた画家、堀内康司の生涯をたどります。堀内は幼くして両親を亡くし、孤児として父の故郷信州で育ちました。苦境のなかで絵に没頭し、独自の画風を追い求めます。20代で上京、孤独に生きる都会の人びとを見つめました。

 堀内康司には一度だけ会ったことがある。1996年に東邦画廊で開かれた「三者三態展」の会場だった。堀内のほか、杢田たけを、山本弘を展示したものだ。堀内のものでは40年前の作品を並べていた。山本の弟子である私が顔を出すと画廊に堀内がいた。もう20年近く前なので、何を話したか憶えていないが、穏やかな人柄のようだった。東邦画廊のオーナー中岡が次回は堀内さんの個展をしますと案内していたが、それは堀内の意向を無視したもので、堀内にそのような気持ちは全くなく、東邦画廊での個展が実現することはなかった。


遺作画集『堀内康司の遺したもの』が見事な出来栄えだ(2013年10月24日)


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堀内康司展
2014年11月1日(土)〜2015年1月18日(日)
9:00〜17:00(休館日11/4, 10, 17, 25, 12/1, 8, 15, 22, 24〜1/5, 13)
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梅野記念絵画館
長野県東御市八重原935-1
電話0268-61-6161
http://www.umenokinen.com/
鉄道:しなの鉄道 田中駅下車 タクシー15分