淀川長治から教えられた「愛」!

 淀川長治淀川長治の美学入門』(マドラ出版)からいろいろ教わった。やはりこの人はただ者じゃない。今回は「愛」について。

 本当の愛というのは、10人の男、10人の女を知ったうえで、1人の男、1人の女を好きになること。なんの経験もなく、なんの失敗もせずに愛というのは成り立たないの。処女がそのまま愛を守り、童貞がそのまま愛を知る、なんてありえない。経験を積んで積み上げたときの愛が、本当の愛ね。
(中略)
 甘い甘い夢見るような愛、星とスミレみたいな愛は危ないね。虹みたいな愛は、すぐに消えちゃう。でも、本物をつかむまでは、相手は何回変わってもいいの。1人つかんだらその人と一生、というのは昔の話で、失敗したら、さっさと別れて、次の人を探せばいい。がっかりしたりするのはバカだね。愛はきれいごとではすまないんだから。
 本当の愛は、相手を尊敬し、相手の人格を認め、しかも、飽きないこと。この飽きないことの根本は何かといったら、やっぱりセックスだね。尊敬はできても、こんな人とはセックスできないというのは愛じゃない。抱かれたいという気持ちがなくちゃ、愛とは言えない。だけど、セックスだけが大事かというと、それも違う。そこが愛のデリケートなところ、深いところ、難しいところだね。
(中略)
……いくら恋愛至上主義と言っても、なかなか1人ではすみっこない。それを1人ですますには、どんなに相手を尊敬し、どんなに相手の美点をつかむか。だから、結婚して俺は女房が大好きだけど、もう1人の女も忘れられない、俺は不潔だ、不貞だというのは大間違い。人間は、なかなか1対1では収まらないもの。神様がそう仕組んだものなの。
 その証拠に、キリスト教でも、1人の男が3人も4人も嫁さんもらってかまわない組織もあったのよ。人間にはそれぐらいのことは、平気でありうる。だからこそ、1対1の恋愛は難しいの。人間はそんなに単純なものじゃないから。"恋愛"というといかにもきれいだけど、いばらもあるし、嵐もある。もっともっと大人の感覚で見て、育てるものなのね。
 だから、僕は、2号さん作るのも、人間としては許すの。別に神に背くものだとは思わない。本当に愛したら、相手に男ができても、女ができても、1回ぐらい許さなくちゃダメね。僕、「愛妻物語」いう映画を見て、腹が立ってしようがなかったことがあるの。嫁さんが病気になって、喀血したのね。それを、亭主が金だらいで受けた。寝たきりの奥さんが庭の花を見たいと言ったら、合わせ鏡で見せてやった。奥さんは「ありがとう」。で、タイトルは「愛妻物語」。バカ言うんじゃない。これは、ただの普通の夫婦ね。愛妻と言ったら、嫁さんに男ができて逃げてしまった。けど、俺の女房は、あの男とは3年と持つまい。帰ってきたら、許して迎えてやろう。それぐらいのことを言うの。そのくらいの強さ、どんなことがあってもその女を離さないだけの愛の深さがなかったら、恋は実らない。女の場合も、男がどんなに2号さん3号さんを作っても、自分からは離さない、最後の死に水は私が取ってやるくらいの愛がなかったら、結婚したらいけないの。

 淀川長治って、映画評論家だったんじゃなかったの? こんな深遠な人生の真理をさらりと言ってしまうなんて。そうか、淀川が、哲学とか真理とかには遠い、映画という世界の周縁にいたから、逆に世界が分かったのかもしれない。私も以前「周辺から世界が見える」という法則を掴んだことがあったのだ。それとも、これは「すべての道はローマに通ず」ということなのか。
 それはさておき、淀川の語る「愛」の定義は真実だ。私たちはなぜか、純愛とか、ひたすらな愛とか、貞節とか、間違った謬見=ドクサに囚われてしまっていた。淀川の主張を積極的に身につけたい。もう遅いか?


周辺からは世界が見える(2006年11月12日)