金井美恵子『小さいもの、大きいこと』を読む

 金井美恵子『小さいもの、大きいこと』(朝日新聞出版)を読む。「目白雑録5」と副題があり、朝日新聞出版のPR誌『一冊の本』に連載されていたものをまとめたエッセイ集で、本書が5冊目となる。いつもチョー辛口の時評が書かれているが、本書は大震災後の2011年6月号から2013年5月号までをまとめたもので、大震災とそれに関連するマスコミの論調を終始厳しく批判している。
 金井は岡本太郎大阪万博に建てられた「太陽の塔」について、原子力発電の象徴だったと書くところから始める。渋谷駅に展示されている太郎の壁画「未来の神話」を原爆への批判という観点から評価し、前衛美術家として再評価を提案する椹木野衣の主張に対して、金井は「椹木よりずっと以前の私たちの世代にとって岡本は戦後的な前衛啓蒙家の悲惨でもあり滑稽な過誤として印象づけられている」と切って棄てる。
 斎藤美奈子朝日新聞に連載されている文芸時評は、「ナイーヴなだけではなく、わかりやすくカジュアルなので、読者が少年少女に想定(限定とまでは言わないが)されているのかもしれないという気のする」とまで言われ、その斎藤が取り上げた和合亮一ツイッター詩も、相田みつを的なものにすぎないと批判される。相田みつをってゴミじゃん。(←これは私)
 猪瀬直樹が引用した百人一首の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは」の解釈を、無知な理解とこれまた切り捨てている。
 円地文子も、原子物理学者を主人公にした『私も燃えている』が取り上げられてほとんど糞味噌に評価されてしまう。具体的には、

 単純で読みやすい文学的メロドラマ文体で書かれた円地の小説を読了するため息の出るような困難さは、私にとって、村上春樹のポルノまがいの幼稚な青春小説を読む困難と疲労感に似ていたと言えるだろう。

 宮内庁御用掛の歌会始選者の岡井隆も俎上に載せられる。岡野が大震災後に詠んだ6首というのを引用して、金井は「無惨である」と書く。
 ついで萩尾望都が震災後にすぐ発表したマンガ『なのはな』が否定的に語られる。私もこのマンガは発売後すぐ買って読んだが、ひどいものだった。金返せって思った。
 さらにいつものように島田雅彦高橋源一郎も批判される。水戸芸術館で行われた高嶺格の個展も批判されることになる。
 具体的な言説にぜひ紹介したいものが多々ある。次にそれを2つほど。

 円地文子は、戦後の女流文学界に君臨する、といったふうの有名作家であり、たとえば、丸谷才一のせいで谷崎潤一郎賞をもらいそこねた中上健次は、どうしても谷崎賞が欲しいので、まずババアにお世辞を使って攻略するのだと(私に)言い、選考委員であった円地文子と文芸雑誌の『海燕』で対談したものだったが、フン、そこまでババアを甘く見てはいけない、もちろん、もらえはしなかった。

 吉本隆明の死の報を受けて高橋源一郎の書いた、涙のしたたりが紙面を濡らしているかのような感動的文章(朝日新聞'12年3月19日)には、幼い娘を抱いた吉本隆明の写真について「ぼく」が初めて見た「思想家や詩人の「後ろ姿」の写真」であり、それによって「ずっと読んできた吉本さんのことばのすべてが繋がり、腑に落ちた気がした」という「その瞬間」が語られている。
「「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った。その時の気持ちは、いまも鮮明だ」そうである。なんと本質的な「その瞬間」に遭遇してしまった、やがて小説家となり批評も書くことになる「ぼく」であろうか。「半世紀前に、吉本さんの詩にぶつかった少年のひとりだった。それから、吉本さんの政治思想や批評に驚いた若者のひとりだった」という文章全体の甘美で抒情的な調子は、高橋が、あたかも、読者にそれが自然体といった調子で甘ったれて訴えかかるよしもとばななに文章的に女装して親子関係を演じているようではないか。

 金井美恵子の皮肉は過激で徹底している。業界ではずいぶんと嫌われていることだろう。だが、過激だとは言え、言っていることは至極真っ当なことだと思う。私は金井のほとんどの主張に組みするものだ。娘が言う。父さん、本当に気の強い女の人が好きだねえ。好みだっていうNHKのスポーツ担当のアナウンサー廣瀬智美さんも気が強そうだし。


目白雑録5 小さいもの、大きいこと

目白雑録5 小さいもの、大きいこと