詩人の大和田海が内藤礼の絵画についてfacebookで書いている。
内藤礼が資生堂ギャラリーのグループ展に展示した作品がよかった。絵がとくにいい。なにかの「淡さ」を追求しているひとはおおいし、自分も「もののあわい」を深化させていきたいと願うひとりだが、その先があるのだと見せられたようだった。「淡さ」を書くのではなく、すでにある色から色を抜いていく。すると「色が消えてくときにのこる色」が顕れ、その「のこる」痕跡は、色の痕跡を深めることでたんなる痕跡を超えたものになる。その痕跡というのは作者の手を離れ、実体なきふるえるものの休まる平野、あるいは子どものときのある日に母がまなざしていたものを子どもがおなじ子どもとしてそう捉えていたどこか透明な時空。世界の源からの痕跡まで作品の尺度は手を届かせようとしていた。
ほとんどなにもみえないところの
色を。
からだのほとんどは世界のほとんどだと。
推敲ということを過激に
内藤礼の作品は、私もこの資生堂の「椿会展」で見ている。その前にもギャラリー小柳の内藤礼個展でも見てきた。たしか何度も塗り、それを洗い、また塗って洗うという作業を繰り返したその結果、画面には淡い色彩(といよりその痕跡)がかすかに残っているという作品だ。それを詩人の大和田は評価し、「推敲ということを過激に」と書いている。
この過激な推敲の詩で思い出したのがエズラ・パウンドの詩「パピルス」だ。
遠いギリシャの昔、レスボス島にサッフォーという女性詩人がいた。彼女は女性と付き合って、詩を書いていた。しかし長い年月を経て、彼女が詩を書いたパピルスは劣化して、断片化していった。サッフォーの住んだレスボス島からレスビアン、レズビアンという言葉が生まれた。
アメリカ生まれのイギリスの詩人エズラ・パウンドは俳句を愛していた。パウンドがサッフォーが書いた詩という想定で作った詩がこの「パピルス」。パピルスに書かれていたので断片しか残っていない……。
城戸朱里・訳『エズラ・パウンド詩集』(思潮社)より
春………………………
あまりに長く…………
ゴングラ………………
内藤礼に戻ると、内藤の作品が「過激なまでに推敲」されたとは思わない。内藤の作品にあるのは痕跡だけだから。もしその言葉を使うなら、むしろリー・ウーファンの方が近いのではないか。あるいは広い画廊の壁の1カ所に直径5mmくらいの小さな赤い丸を1個描くだけの松山広視とか。
- 作者: エズラパウンド,Ezra Pound,城戸朱理
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