坂崎乙郎『絵とは何か』を読む

 坂崎乙郎『絵とは何か』が河出書房から文庫化して出版されたので、35年ほど前に読んだ単行本を引っ張り出して読み直した。当時坂崎乙郎についてはたくさん読んでいた。『絵を読む』『幻想芸術の世界』『夜の画家たち』『絵画への視線』等々。もっと読んだかもしれない。早稲田大学の教授で紀伊國屋画廊の顧問もしていたようだ。美術評論家として当時代表的な一人ではなかったか。多くのことを教わった気がする。しかし再読してみれば、35年も経ちあちこち古びてきているのは否めない。
 本書ではゴッホについて書かれた部分が圧倒的に多い。その他ドイツ・リアリズムやシュルレアリスムなどを語っている。その「シュルレアリスムと日本」という論文に興味深いことが書かれている。

(美術史家の)ゴンブリッチシュルレアリスムには否定的であるが、私は20世紀絵画の流れの中でシュルレアリスムアブストラクトだけは終ったと感じていないので、それほど否定的ではない。いや、むしろ、フォーヴィスム表現主義に比して、人間の魂の直接的表現ともいえるシュルレアリスムアブストラクトは今後ますます制作者を掴んで離さぬだろう、と信じている。(中略)
……20世紀の卓越した画家のほとんどが「魂の直接的表現」をめざしているではないか。パウル・クレーといい、ヴォルスといい、ジャコメッティアンリ・ルソー、ド・スタール、アンリ・ミショー、エゴン・シーレハンス・ベルメール、いずれも例外ではない。(中略)
 制作者の心にはたえずこの現実否定がひそんでおり、このことは明らかに芸術家がいかに自分の魂の領土を守っているかのあかしなのである。まして、絵画は今やまったく想像力のありかたにかかっており、シュルレアリスムが「魂の状態」を大切にした以上に人間のエグジスタンスそのものにかかわってきている。ただし、すぐれた絵には技術も必要であるから、まるで乱暴なピカビアやマン・レイの作品は正統でない、と私はくりかえすのである。同じことが、日本のシュルレアリスト(?)にもいえるであろう。瑛九古賀春江シュルレアリストというより、モダニズムの画家である。古賀春江の《海》はなにもかも画面に並べて付属品ばかり、骨格がない。瑛九は新しがり屋である。
 福沢一郎はフォーヴィスム、正確には独立美術調でシュルレアリスムの絵を描いているし、浜田浜雄の《ユパス》はダリの翻案である。ここにはシュルレアリスムの重要な技法−−写実をしのぐ虚構がみあたらない。北脇昇の《暁相》《独活》はこれらの中で光り、前者は日本調であるものの、彼はシュルレアリスムの精神を解し、靉光の《眼のある風景》はエルンストの影響を如実に示しながら、しかも力強い構成とやにっぽいマチエールで傑作であると思ったが、どうだろう?
 しかし、奇妙なことに、一番感銘を受けたのが岡本太郎の《痛ましき腕》(1936年)である。当の絵は学生のころはじめて見、日本にもこんなすばらしい絵があったのか、と心ふるわせた記憶がある。
 《痛ましき腕》も細密ではなく、近寄って行って凝視する画面ではないから、あるいはシュルレアリスムの尊重する繊細さからはずれているのかもしれない。
 が、《痛ましき腕》は強靱である。形態に、色彩に、稀にみる緊張感を具えている。びくともしない。そして、このとき私のいったい何が感動しているかといえば、感覚−−曰く心の琴線なのだ。そして束の間の感動が去ると、どうしてこれだけの画家がその後《痛ましき腕》を抜く作品を描かないのか、描けないのか、ふたたび想像力の持続度の問題が頭を持ち上げるのだ。

 坂崎は他のところで、エゴン・シーレ鴨居玲、坂本善三を高く評価している。いずれも優れた画家ではあるが、同時代で特別に抜きんでているわけではない。シーレは私も好きではあるが。
 坂崎の予想「シュルレアリスムアブストラクトは今後ますます制作者を掴んで離さぬ」に反し、抽象は残ったがシュールレアリスムは描く人がほとんどいなくなってしまった。
 さて、また35年が経つとこの世界がどんな風に再評価されているのだろう。

絵とは何か (河出文庫)

絵とは何か (河出文庫)