生島治郎『浪漫疾風録』を読む

 生島治郎の自伝『浪漫疾風録』(講談社)を読む。生島は流行作家として膨大な著作があるが、読んだのはこれが初めてだった。早稲田大学卒業後、就職難の折り、最初にデザイン事務所に勤め、ついで草創期の早川書房に編集者として勤める。上司として編集部長に詩人の田村隆一が、また後に編集長として都筑道夫を迎える。都筑が退職した後雑誌『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長となる。
 早川書房の薄給の編集者としての辛い、それだけにまた面白い数々のエピソードが語られる。同じ早川書房の編集者だった宮田昇の『新編 戦後翻訳風雲録』と同じく早川社長と田村隆一のことが語られるが、早川社長に対する評価は似たようなものの、宮田と違って生島は田村に好意的だ。
 早川書房や雑誌『宝島』を巡る当時のエピソードは、先にも紹介した小林信彦『四重奏 カルテット』(幻戯書房)や宮田昇の『新編 戦後翻訳風雲録』(みすず書房)と本書を読み比べると、いろいろ分かって面白い。編集者時代の都筑道夫の下着を洗濯しないで1カ月間着続けるエピソードとか、内輪話が満載だ。開高健田中小実昌等々も登場する。
 早川書房は給料が安く、編集部員は翻訳やコラムの執筆などアルバイトをしていた。また、それが暗黙に認められている。

 編集者は粋な仕事であり、その粋っぽさを生かすには、縁の下に徹することだと思っていて、できればアルバイトなどしない方がいいと考えていたが、現実に食っていくには、アルバイトに手を出さざるを得なかった。
 そして皮肉なことに、原稿を書けば書くほど文章がうまくなり、アマチュアからプロへと脱皮してゆく。そうなるとますます注文が多くなって、社の仕事より多くの仕事に追われ、そっちの方の稼ぎが大きくなった。
 こうして早川書房からは続々とプロのもの書きが巣立ってゆく結果になる。いみじくも田村が言ったように、オックスフォード、ケンブリッジ、エールというような名門校から、その卒業生たちがビジネスの世界へ活躍の場を求めるように、のちに早川出身のもの書きが続々世に出ることとなった。

 なるほど待遇が悪かったせいもあって、早川書房出身者に作家たちが多いのか。楽しい読書だった。


宮田昇『新編 戦後翻訳風雲録』を読む(2012年11月30日)
小林信彦『四重奏 カルテット』を読む(2012年10月30日)


浪漫疾風録 (講談社文庫)

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四重奏 カルテット

四重奏 カルテット

新編 戦後翻訳風雲録 (大人の本棚)

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