ミナミ美術館という美術館があった

 もう25年ほど前、秋葉原にミナミ美術館というのがあった。当時秋葉原電気街でも最も大きかった電気製品販売店の一つ、ミナミ電気の最上階がその美術館だった。そのことを松浦理恵子『優しい去勢のために』(ちくま文庫)を読んで思いだした。
 松浦のこのエッセイ集は、彼女の長篇小説『親指Pの修業時代』がベストセラーになったことで、それまであちこちに書いてきたエッセイをまとめて出版したもの。松浦の初期の短篇集は好きだったけど、このエッセイ集はいただけなかった。掲載誌を見ても、連載していたのは「スタジオボイス」とか「フリー」とか「就職情報」、「劇画チャイム」などマイナーな雑誌が多い。メジャー誌に書いても単発で、連載されることはなかったようだ。つまり松浦のエッセイはおもしろくないのだ。その逆にエッセイがおもしろくて小説がつまらないのは、丸谷才一とか加藤周一とかが挙げられる。
 さて、本書中ミナミ美術館について書かれた文章があった。「観念の吹き出物」と題するエッセイで、ダリのことを奇行や文章を評価しながら、「(美術)作品の方はあまり刺激的ではない」と言っている。

……ダリの絵からは全く生理を揺さぶるものを感じない。上手だと思うし頭のいい人だと感心するけれども、絵は眼球から脳へと素通りするだけで快感も不快感も呼び起こさない。
 血腥さが、泥臭さが、艶めかしさがないのだ、ダリの絵には。キャンバスの上に読み取れるのは観念の配列のみであり、しかもその観念は肉体と結びつかない(=エロスの要素の含まれない)衝迫力のない観念である。(中略)
 絵に比べるとオブジェの方は、触ってみたい、掴んでみたい、放り投げてみたい、壊してみたい、というような欲望をそそる分、訴えかけて来るものが大きい。
 もちろん基本的には二次元のモチーフが三次元に移されただけなのだが、目下秋葉原のミナミ美術館で催されている『ダリ 愛の宝飾展』はなかなか楽しめる。
 暗い回廊の壁にしつらえられた陳列窓を覗くと、宝石で構成されたダリ的観念が鎮座している。胡散臭い見世物小屋に入り込んだ気分の味わえるこの展示方法はよい。
 37個の宝石彫刻を見終えると改めてダリの思想家志向の強さに感じ入る。ダイヤモンドもルビーもダリ的観念に嵌め込まれているばかりで、決してモチーフとはなっていない。ダリ的観念の表面を彩る美しい吹出物でしかないという使われかたである。あまりに徹底しているのでしまいには微笑を誘われる。

 これが掲載されたのは「就職情報」1986年10月23日号だ。26年前になる。もうミナミ電気もミナミ美術館も跡形もない。
 当時私も同じものを見ている。松浦の言うとおり宝石類はダリの作品の表面を飾っているだけだった。私が考えたのはミナミ美術館を作ったミナミ電気の社長のことだ。おそらく、ダリの作品の価値に対して本当には確信することができなくて、仮に作品が無価値とされても宝石は残ると無教養に考えたのに違いない。それでダリの宝石を使った作品だけを収集し、こんな下品な美術館を作ったのだろう。
 なお、松浦の評価とは異なって、ダリは絵画こそが一級品だと思う。ダリの奇行や文章が評価されるべきでは決してなく。

優しい去勢のために (ちくま文庫)

優しい去勢のために (ちくま文庫)