中野剛志『日本思想史新論』がおもしろかった

 中野剛志『日本思想史新論』(ちくま新書)がおもしろかった。江戸時代の思想家、伊藤仁斎荻生徂徠、会沢正志斎に、明治の福沢諭吉を並べて論じている。それらが思想的に繋がっていると主張している。これは新しい見解だろう。伊藤仁斎はそれまで主流だった朱子学に抗して古義学を提唱し、それを受け継いだ荻生徂徠古文辞学を完成する。しかし会沢正志斎は水戸学の理論家だ。水戸学は尊皇攘夷を主張し、開国に反対した保守思想だと見られている。さらに福沢諭吉は徳川幕藩体制の身分制を親の敵でござると言っている。どうしてこれらが繋がるのだろう。
 第5章の冒頭にこれらの流れを概観したレジュメが置かれている。

 伊藤仁斎は、日常の経験世界を重視した実践哲学を樹立した。「気」を「理」に先行させ、人間とその環境を「活物」とする動態的な世界観を提示して古学の開祖となり、壮大な体系を誇った朱子学の合理主義に一撃を与えたのである。
 この仁斎の実践哲学を批判的に継承し発展させたのは、荻生徂徠である。徂徠は、制度を通じたプラグマティックな統治を提唱した。そして、商品経済化に伴う物価の不安定化や階級格差の拡大といった未知の危機を克服すべく、その実践的な政治哲学に基づき、通貨の供給拡大や武士の土着化といった画期的な制度改革を提言した。
 会沢正志斎は、仁斎が生み徂徠が育てた古学のプラグマティズムによって、近代西洋の衝撃に対処すべく、壮大な国家戦略の書『新論』を著し、日本が目指すべき姿として国民国家の原型ともいうべき政体を構想した。古学のプラグマティズムは対外的危機に直面した時、水戸学のナショナリズムへと姿を変えたのであった。
 尊皇攘夷思想は、幕末・維新の日本を動かす原動力となり、また『新論』において示された国体観念は、近代日本を基礎づける支配的イデオロギーとなった。その一方で、水戸学自体は、藩内の苛烈な抗争による水戸藩の弱体化に伴って思想的な指導力を失い、水戸学が守ろうとした幕藩体制も、自らが生み出した尊皇攘夷思想によって崩壊した。
 しかし、維新後においても、水戸学の尊皇攘夷思想のような、プラグマティズムに裏打ちされたナショナリズムの精神を継承した思想家がいたのである。それは誰であろう、福沢諭吉その人である。

 きわめてコンパクトに分かりやすくまとめている。しかし、中野の最も力を入れたところは、丸山真男の徂徠論への反論であったのだろう。丸山真男は『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)において、徂徠を近代思想の先駆と位置づけた。朱子学が道を天によって作られたとしたのに対し、徂徠は道は聖人が定めた、聖人の作為によるものだとした。丸山はこれをもって、日本にも近代思想が生まれたと考えた。それに対して中野はこう主張する。

徂徠は、丸山が解釈するように、絶対主義を唱えて近代合理主義への道を拓いたのではない。むしろ歴史や伝統を重んじ、近代合理主義と対決した保守主義の先駆者として理解すべきである。

 福沢諭吉の思想は会沢正志斎とは矛盾すると考えられているが、中野はそうではない、二人は共通していると説く。これはあまり説得力がない。
 中野は天皇主義者とも思えるような保守派なのだ。その点が読みながらいささか違和感を覚えた。橋爪大三郎も読売新聞の書評(2012.3.25)でこう述べている。

中野剛志氏の読解は、なんとなく危なっかしいところもあるが、《日本思想史の専門家でもない私が、(中略)身の程知らずの試みに駆り立てられた》という切実な思いも、思想家の相互関係をたどる準縄(じゅんじょう)のあて方も、なかなか良い。

 題名から想像されるような難しい本ではなく、おもしろく読めた。題名の『日本思想史新論』は会沢正志斎の主著『新論』に掛けてあるのだろう。


日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)

日本思想史新論―プラグマティズムからナショナリズムへ (ちくま新書)