美術評論家たちの死

 今月3人の美術評論家が亡くなった。中原佑介さん(3月3日、79歳)、瀬木慎一さん(3月15日、80歳)、鷹見明彦さん(3月23日、55歳)、わずか3週間で3人が亡くなった。昨年5月には針生一郎さんも84歳で亡くなっている(5月26日)。
 中原佑介さんは講演会で話を聞いたくらいで、個人的には接触はなかった。3年ほど前、山本容子の自伝「マイ・ストーリー」を読んで、山本容子中原佑介と同棲していたのを知った。中原の給料は奥さんの管理する銀行口座へ振り込まれてしまう。二人の同棲生活は経済的に大変で、ビールの空き箱に板を載せてテーブルにしていたとか書かれていた。いいオッサンが「精霊流し」のような生活をしていたんだと半ば呆れた。しかし、やはて中原は山本容子に捨てられる。
 瀬木慎一さんは山本弘の作品を高く評価してくださり、当時連載を持っていた週刊ポストのカラーページに紹介してくれた。また、六本木のストライプハウスの企画を担当していたが、先月でそれが終わってしまった。まだ続いていたら山本弘を企画で取り上げたのだがと言われた。銀座の兜屋画廊で開かれた山本弘展に来られた時は、山本弘展の次に予定されていた村上肥出夫展と比較して、村上は俗だけど、あんたの先生の芸術はこんなに高いよと言って手を頭の上に挙げられた。
 鷹見明彦さんとは銀座の路上で名刺を交換したことがあった。1999年10月28日、アートギャラリー環から出てこられた鷹見さんに声をかけ、当時無名だった画家K氏の名前を挙げて、彼のために力を貸してやってほしいとお願いした。こんなことをしてくれている人がいるんだ、と言われた。何だかシャイな方だった。朝日新聞の死亡記事では肝臓癌で亡くなったこと、喪主がお母さんだとある。独身だったのだろうか。
 針生一郎さんには山本弘が世に出るために多大な援助をいただいた。飯田市に住む山本弘未亡人を訪ねて、残されていた絵をすべて見られ、飯田市美術博物館の収蔵庫に収蔵されている山本の作品もすべて見られた。読売新聞に山本弘に関する長文の紹介も書いていただいた。感謝の気持ちでいっぱいだ。
 一時期マスコミが、針生一郎中原佑介東野芳明の3人を指して、「美術評論家の御三家」と呼んだ。3人とも亡くなり、確実にひとつの時代が終わった。あとを継ぐべき評論家は、椹木野衣岡崎乾二郎などだろうが、本当は実力からして篠田達美が継ぐはずだったと思う。篠田は東京国際フォーラムのアートディレクターに選ばれたが、1996年激務からか脳幹出血で倒れたという。以来闘病生活を送っていると聞くが詳細は伝わってこない。