北方謙三「抱影」を読んで

 北方謙三「抱影」(講談社)を読んだ。北方を読むのは初めてで、ふだんならまず読むことはなかったが、本人も画家である知人が、画家が主人公の小説だよと貸してくれた。
 北方謙三という作家は、「水滸」3部作である第1部「水滸伝」19巻、第2部「楊令伝」15巻を書き、ついで第3部「岳飛伝」を書くのだという。壮大な伝奇小説作家らしい。このことは読売新聞11月7日付けの北上次郎の書評で知った。さらに同じ日の朝日新聞にも逢坂剛によるこの「抱影」の書評が掲載されていた。

 主人公の硲(はざま)冬樹は、横浜でいくつかの酒場を経営する、中年男だ。毎晩のように、自転車で店を巡回し、したたかに飲む。その一方で、画家として特異な才能を発揮し、内外に名を知られた存在でもある。(中略)
 硲を親父と呼ぶ若者がもめ事を持ち込んだり、硲が画家志望の娘に破瓜の儀式を施したり、といったエピソードが盛り込まれる。

 いや画家としての硲はほとんど知られていない存在なのだ。経営する酒場の従業員たちでさえそのことを知らない。四六時中スケッチブックにスケッチをし、それをもとに時々狂ったように絵の制作にのめり込む。制作に没頭している何日間かは食事をした記憶も眠った記憶も制作そのものの記憶もなくしている。気がつくとよれよれになった自分がいて、作品が完成している。気に入らないと即座に作品を切り裂き、そうでない時は裏返して二度と見ない。
 何度も何度もスケッチしたものから抽象が生まれる。「抱影」から、

 私はまた、素描(デッサン)をはじめていた。/昂ぶらない。自分を失わない。冷静に、素描の変化を見つめ、それを分析する。そうやって自分の心の中と対峙する。(中略)かたちから脱けるのに跳ぶのは、一瞬である。その瞬間だけ、私は、多分、異常な心の状態になっているのだろう。それから私は、キャンバスに筆を走らせる自分を、俯瞰している。その状態で、数時間で絵はできあがるのだ。/いまは、まだ素描が、割れた花瓶であることは、誰が見てもわかるだろう。(中略)
 花瓶が、かなり大きく変りはじめたのは、素描を始めて二週間ほど経ったころだ。(中略)素描の木炭を遣う私は、日常の私ではなくなり、それを見つめているもうひとりの自分がいる、というかたちだった。/物のかたちから、心のかたちへ跳ぶ瞬間に、私は自覚できる自分ではなくなっている。それも私なのだ、といまは思っていられる。/跳ぶことを、恐れてはいない。いかに昇華しようと、物はいつまでも物なのだ。かたちは間違いなくある。かたちのないもののかたち。そこへ跳ぶのは、非日常でもなく、創造の極限でもなく、多分、狂気に似たなにかなのだ。(中略)
 描きあがった絵を、私はすぐに裏返しにした。/花瓶が、花瓶ではなくなった。物象と呼ぶものではなくなった瞬間を、私はまったく憶えていない。気づいた時は、白い20号のキャンバスに、木炭を走らせていた。

 画家が抽象作品をどのように描くのかを北方が想像したのがこのくだりなのだろう。思うに、北方は2003年に東京国立近代美術館で開かれた野見山暁治展へ行った時からこのことを考え始めたのではなかったか。会場の最後に展示されていた最新作3点の抽象画の大作について、画家はこの3点はみな同じスリッパのスケッチからできたものだと解説していたし、1990年代初めの作品は台風で一瞬のうちに割れて砕けたベランダの大きな瓶を描いたものだった。
 しかし実際の絵の制作の過程は。北方が考えるものとは違うのではないだろうか。画家は最後まで理性を失うことなく、といって理性でコントロールするのでもなく、絵が完成するのではないだろうか。私はこの時、大江健三郎の講演「ハビット(習慣)について」を思い出す。大江が若い頃書いたエッセイ集「持続する志」に響き合う講演で、習慣づけられた執筆生活の結果、困難な局面に遭っても解決法が生まれてきて作品が完成するということを、アメリカの作家フラナリー・オコナーや自分の「人生の親戚」の執筆過程を例に引いて語っている。
 北方謙三の「抱影」は面白く読んだ。細部の描写が充実していて構成もうまい。実際の内容は冒険小説の側面が大きく、派手なアクションもある。けっこう残酷なシーンもあるが、いま読んでいるハヤカワポケットミステリの少女の両脚を鋸で切り落とす描写に比べればさほど驚くほどでもない。若い娘の両脚を切り落とすシーンは村上龍の「トパーズ」にもあったが。
 北方が人気のある作家であることがよく分かった。野見山の創作方法を解明したいという意図もすばらしいし、また作家がどのように物語を発想するのかも分かって興味深かった。人に勧められた本は思いがけない出会いのあることが時々あるのだ。
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 絵画の制作について補足を少し。北方はデッサンの見事さが作品の完成度の高さに関連していると考えているようだが、この二つは必ずしもイコールではない。デッサンが見事な小磯良平は特別優れた画家ではなかったし、デッサンが下手だった山口長男もバーネット・ニューマンもフランク・ステラも一流の画家になったのだから。


抱影 (100周年書き下ろし)

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